悪態祭り

 

 私は言葉が悪いと、よく言われる。

そうだ私は、歯に衣着せたモゴモゴ何を言っているのか分からない話が嫌いだ。

 言いたいことは端的に真直ぐ伝えたいと思っているし、聞きたい。

そして、私の言葉が過熱し過ぎることが多々あることは、自覚しているし、

“一応”反省している。

 

 悪態(あくたい)をつく。という言葉をご存知だろうか。

それは、愚痴でもなければ悪口を言うということでもない。

 “悪態祭り”なるものが、昨年12月16日に、茨城県 笠間市 愛宕神社で行われた

と新聞で見つけた。

 それを読んだ時、喧嘩祭りが身体のスポーツみたいなものと考えるなら、悪態祭りは

言葉のスポーツじゃなかろかと、私は思った。

島国で逃げ場のない日本人は、兎に角“和を以って貴しとなす”で何事にも波風立て

ないで穏便に済まそうとする傾向が強い。

 人と喧嘩しない、誰とも仲好く出来る子に育てたいという親は多いが、私は、人と衝突

しないように育てられた(生きてきた)人は、陰険になる。そんな気がしている。

 もっと人と人はぶつかってもいいんじゃないか、ドンドン本音を出し合って本気で話す

心地よさを分からない時代になってきているんじゃないか!(オー、オーカッコイイねぇ)

 そう、本気で話さなければ、そこで喧嘩の一発もなければ物事は変わっていかない。

とワシャ思ってきた。

 でーも、そこにはルールがある。

それこそが肝心要で、話し合いのその場が、実りあるモノになるか、無法地帯になるかの

分かれ目だと確信している。

 それを伝えたくて“しゃべり場”について話したり(講演ってやつですかい)書いたり

してきた。

 

 新聞の要点

「悪態祭り」

 年一度「悪を吹く」ことを農民に許す行事として江戸時代に始まったとされる。

ルール、個人名は言わず、その場限りに留める。など。

 平家物語、軍記物語

      敵の戦意を奪う「武器」として悪口が描かれている。

 江戸時代のケンカもタンカを切って野次馬を沸かせた方が勝ちで、なぐり合いは野暮だ

った。

 相手との間合いを計り、もめ事を平和裏に解決する手段として悪口には共同体で培われ

てきた貴重な知恵が詰まっている。

            とあり

悪態祭りで叫ばれるのが「もっと早く起きろ―」とか「ちゃんと返事しろー」「文句ばっ

かり言うなー」「掃除しろー」「税金高ーい」なんからしいけど、そういうことって普段

から言えばいいのに。と思った。

 

 で、江戸時代のケンカは、アメリカのラップと同じ構造だったんだぁ、と思った。

映画、エミネムの「8マイル」参照。

そして、30年位前にテレビで口喧嘩をする番組があったことを思い出した。

番組名は忘れたけど(誰か覚えていたら教えて)

その時、言葉の出ない人ってのは、手が出るんだな。と思ったっけ。

若しくは、人の身体的欠陥や特徴を言い出すんだな。

「目が小さい」だの「足が短い」「背が低い」「デーブ」「変な服」家が貧乏だのボロイ

だの親が変だ。なんて、相手をやっけることに夢中になって我を忘れちゃって。

そうなると、それを言っている自分が、一番みっともないってことに気が付かない。

いやぁー、あれは勉強になったなぁ。

 

 毒を抜こうとすることは、語彙(ごい)ボギャブラリーを乏しくさせる。

本音が言えないもどかしさ、淋しさ、ムカつきになる。

そして、普段訓練していないから失礼なことを言ってしまうことになり、親しかったら

何をしても許されると思う甘えになる。

その奥底では、一度突き放されることを望んでいるんじゃないかと感じることがある。

そして、その上で本当の人との繋がり結びつきを求めているんじゃないか。と。

 

「悪口はイノベーション(革新)の母」