アマノジャク

 

 私は決めつけに反発する。

人の思い込みを引っくり返したい。浮き足立ったモノの足元をすくいたい。

という衝動に駆られ、それが、考えなしに出てくることがある。

 

 昨日話した人は、老人の介護関係で働いてる人だった。

世話好きで面倒見がいいという感じの60歳位の人だったが、ちょっと上から目線で

決め付けて話してくる。

彼女は、人は結婚して子供を持たなければならないという考えのようだった。

(ならないって、努力してもそうならない人はどーすんだよ)と思っていると、

彼女に、子供は結婚しているのかと聞かれた。二人とも結婚した、と答えると、

「良かったわね」と「安心したでしょ!」を繰り返し、「じゃ、次は孫ね」と言って

「お孫さんは居るの?」と聞いてきた。「いない」と答えると、「じゃ、早く欲しいでしょ!」

とおっしゃる。

(あー、こういう人って、頑張って走って一息つこうとした時、はい、次はココよ!と

追い立てるんだよなぁ)と思う。

「それ程でも」と言うと、「いや、欲しいハズよ」とおっしゃる。

「あなたみたいな人は、孫が出来たら手放さないで自分が育てちゃうんじゃないの?

いつも抱き歩いて、見せびらかして歩くんじゃないの?」とその人は言った。

 軽く聞き流そうと思っていたのだが、私は本音を出し始めた。

「私、若し孫が出来てもそれはしないと心に決めているの」

「そんなこと言っても、孫が出来たら絶対にそうなるって」

「ううん、友人が子供の出来ない身体で、出産ラッシュの時期にミンナ子供を産んで

子供の話しかしない時に嫌気がさして、幸せな人って何て視野が狭いんだろうって

絶望的な気持ちになったんだって」と私が言うと、

「それって、ヒガミじゃないの?」とおっしゃる。

「うん、そう言われることが分かっているから、私以外の人には、そう思ってること

話さないから、世の中の大多数の人は、そういう考えでいる人が居るんだってこと

知らないでしょうね」

「でも、あたし老人介護の仕事してるけど、家族がない人って年とってミジメよー。

幾ら面会に来なくたって、書類に書く名前がなかったら施設にも入れないのよ」

「そうかもしれないわね」と言いながら、樋口恵子の“私の老い構え”にあった海外の

親子の関係と施設入居の話を思い出したが、話すと長くなるし、この人にはちょっと

話した位では通じないんじゃないかと思って止めた。

「兎に角、孫が欲しくても出来なくて、孫の話しかしないから年寄りの集まりには

出ないって人も居るのよ」これは、本当の話。

「だから、自分の満足で浮かれて見せ歩くような真似はしないと決めているの」

「素直じゃないわね」

「そ−なの、素直じゃないのよ私」

と言ったが、私は嬉しいことは、浮かれないで噛み締めることにしている。

 

 実は、子供が出来ない身体の人が、ってのは、架空の人物だ。

でも、自分の子供のことにしか関心がなくて視野が狭い人に絶望的な気持ちになった、

ってのは、本当の体験だ。

人間の豊かさの一つは、想像することだと私は思う。

自分という枠を取り外して物事を考えるためには、具体的に自分がコレだったらという

想像がものを言う。

 いつも自分という枠から出ないで思考していると、出てくる答えが独りよがりになって

くる。

 そういう人と話していると、必ず自分のことに話がいく。

自分のことから頭が離れない。

そして、どういう訳だか浮き足立っていることが多い。

“浮き足立つ”とは、どういうことかというと、現実をしっかり見ようとしていない気が

する。

“現(うつつ)を抜かす”ともいうが、痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)ってやつで

眼にウロコが張り付いていて、自分に都合よくしか見えない。のか、見ようとしないのか。

「ウチの子、〜に似てるの」

この場合、ウチの子が、私の彼だったり自分だったりして、〜には、アイドルの名前

などが入る。

 そして、そういう人は一様に外見や形(知名、地位、学歴)に囚われ、そうでない物

を否定するようだ。

自分さえ良ければ、それ以外のことについては考えようとしない。

 

 先日、私が、「ある人を好きだ」と言ったら「ありがとう」とその人は言った。

「何故、あなたがお礼を言うのか?」と聞いたら「私の好きな人を誉めてくれたから」

とその人は言ったが、私には、誉めてあげたつもりもなければ、その人の好きな人で

あろうが何ら関係なかった。

自分が好きなことや支持していることに同意の人が居ると嬉しい気持ちになる。

嬉しい気持ちにはなるが、それが自分のためだとは私は思わない。

 ある寺の入り口で知人に出会った。

その人の家族の墓がそこにあるらしかった。

「あれー、ここにお墓があったの、私もよくここに来るんだよ」と言うと

「それは、ありがとう」とその人は言った。

 それを聞いた瞬間(この寺はオマエの持ち物かーい)と、私は思い、寺の住職が、

「寺っていうのは、誰のモノでもなくて、誰のモノでもあるんですよ。

何時でも来てくださいね」と言っていたのを思い出した。

 

 そこの入り口に、学校の入り口に貼ってあるみたいに言葉が貼ってある。

「私のあたまに つのがあった

つきあたって 折れて わかった」 と、あった。

 先週5月18日、次女とその寺に行って、その言葉を読んだ。

「いい言葉だね」と次女が言った。

「お母さんの場合には続きがあるんだ」

「何?」

「私の頭にツノがあった。突き当たって、折れて分かった。

 でも、又、生えてきた。今、ツノがここにある。このツノ、どうしようか…」

次女は「そのとーり!」と笑った。

 

アマノジャクって鬼だからツノがあるんだよねぇ。

 

今日、5月25日は、長女と一緒に義母の所に行って、冷やし中華を食べて買い物して

お寺に行った。

 快晴で、風が気持ちよくて、楽しかった。

お寺の中を覗くと、色々な言葉の中に

「大丈夫 生きていける」と見えた。

ちょっと、涙が出そうになった。