二つ

 私の空想というか何かを考えて練り上げていくという作業は、絶え間なく続いている。

例えば、出掛ける前だった。

台所のフックにフライパンを掛けようとしたその時、目にゴミが入った。

涙を流してゴミを出したが、まだ痛い。

そして、片目でフライパンを掛けることになった。

すると、まるで遠近感がわからない。

あまりのわからなさにビックリした。

フライパンの小さな穴をフックに掛けようと何度も挑戦しているうちに、目の痛みは

治まってきたが、徐々に私は、片目で遠近感を掴むにはどうしたら良いかと考え始めた。

そして、見つけたのが、自分が動くことによって距離感を掴んでいくということだった。

なるほど、夜空の星は平面に散りばめられ本当の距離はわからない筈なのに太古の人間

がその距離を知っていたという文献が残っているのは、地球が動くことで知ったからだ。

 天動説が地動説になってから、まだそう大して経っていないが、天動説にしがみ付いて

いた時期よりも、もっと大昔は言葉でない科学と物理によって物事を見観察し、理解して

いたのではないかと思ったりする

 人は、二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴でキャッチする。

その僅かな差でそれがどこに位置しているかを、察知するのだ。

だから、頭の後ろ中央部で音を出されると何処から音が来ているのかわからず、自分の

前で鳴ったの音だと勘違いしてしまうと聞いたことがある。

 勘違いというのは恐ろしい、自分がそうだと思い込むとそれは揺るぎのないものとなり

一人歩きを始める。そして、それは化け物となる。

 人は、二つのものでキャッチすることによって、より正しい認識をすることになる。

それは、物理的認識だけでなく何かを見極め、理解しようとしたとき、一人だけの考えで

なく違う人の意見、見解を見聞きするということが重要になってくる。

 兎に角、人は自己満足の世界に入りたがる根本欲求を持つ。

それが過ぎてイエスマンだけしか周りに置かなくなったりする。

それは、とても危険なことだ。

人は一人では生きて行けない生き物だという。

“人間”を辞書で調べると、人の住む所。世の中。世間。じんかん。(社会的存在として

人格を中心に考えた)ひと。また、その全体。人類。人物。人柄。とある。

 挨拶によく使われる話に、

「人という字は支えて支えられている。あなたは支える人か、支えられる人か」というの

があるが私はその話が嫌いだ。

 人は基本的に、人として自分の二本の足で、自分で立ち、自分を律するべきだと思う。

それが、自立であり自律である。

その上で人間として、社会に生きるのだと思っている。

 自立、自律をしようと努力しない者は、支えあう事は出来ないと思う。

自分一人支えるのでさえも精一杯だ。自分以外のものまでを支えることには無理がある。

但し、自分が生きていることが、結果的に誰かの支えになったり助けになるということ

は、確かにある。

 しかし、それは結果的に支えになるのであって最初から本人の努力なしに身を預け、

支えになってくれ、支えになってやろうという関係ではいずれ破綻していくであろう。

 人間関係に於いて目に見える形はどうあれ、支えるだけのものも、支えられるだけの

ものも存在していないと私は思っている。

 

ケネディーが言った。

「あなたは、国が何をしてくれるかでなく、あなたは国のために何が出来ますか?」と、

してもらうことばかり求めて不平不満を言っているより、自分に何が出来るかを考え行う

方が気持ちいいと私は思う。

自分の力で作り出そうとせずに貰うものを待っているってのは、乞食だと思う。

最初のテーマ“二つ”の一つに結婚がある。

しかし、結婚という形を持たなくても、人は人と関わることによって人間になる。

一人の人が二つの目で見て、違う人の見解も聞く。

自分の所作、存在は、自分では見えない。

自分の為したことは、相手の反応を見ることによって確認することが出来る。

 あるジャズシンガーが言っていた。

「私は風や、お客さんは洗濯モンや。風は自分の姿は見えへん。

私が気持ちようふくことによって、洗濯もんが気持ちよう乾く。

洗濯もんが気持ちよう乾くことによって、私は、初めて自分を知ることが出来るんや」

それを聞いた時、その通りだと、私は思った。

一つだったものが、他と関わり二つになる。

 二つになるところから総ては始まり世界は広がるのだ。

だから何だって言われちゃったら困っちゃうんだけど、そんなこと延々と考える。

 そして、待ち合わせの時間に遅れるのだ。