美容室(麻子)

 

麻子はそれまで、自分の容姿は美しくなく恨みがましい人を嫌な気持ちにさせるもの

だと思って生きてきた。

それは、祖母に悪気のないことは分かっているが、物心ついた時から言われてきた

「おまえは、母親似でキツイ顔だ。可愛げのない顔だ」という言葉だった。

事実、新しく知り合った人は、しばらくすると必ずのように、

「麻チャンって案外面白い人だったんだね。もっと恐い人かと思ってた。」と言ってくる。

麻子には、普通の女の子のような友達は居ない。

麻子は、普通の子達のように話を合わせたり、誉めあったり、やりたくないことを

誰かと一緒に行動することが出来ないのだ。

いや、する気がないというのが、正しいだろう。

しかし、麻子は自分の顔が愛くるしい、見ているだけで楽しく(嬉しく)なるような

顔だったら、自分の人生は違うものになるのではないかと思うことがある。

 

それが最近、ちょっとした変化があった。

祖母に「子どもは美容室など行く必要はない」と言われ続け、

小学校のうちは家で切ってもらい、中学になってから伸ばし始めるというより、

伸ばしっぱなしになっていた髪を、高校に入って、美容室で切ることにしたのだ。

 

そこにケンちゃんがいた。

ケンちゃんはホモだという噂があった。

麻子が初めて美容室【Bee】に行ったその日は梅雨に入り、曇り空の肌寒い日曜日で、

もの悲しい様な、懐かしいような落ち着く日だった。

 

♪雨がしとしと日曜日、僕は一人であなたの帰りを待っていた…♪

少し前に流行ったグループサウンズの歌が、麻子の頭の中で勝手に流れていた。

 

美容室の中は程良く暖かく、湿気と薬液とシャンプーの香りでやさしく満たされていた。

5人の男女の美容師が、シャンプーやカットをしていたが、待っている客はなかった。

ドアのところで立ち止まった麻子を、ケンちゃんはいち早く見つけてやって来た。

 

「いらっしゃいませ」

「あ、どうも…」とドキッとしながら頭を下げながら、そんな自分をダサ、カッコワル

と麻子は思う。

「今日は初めて?」

「エ、ア、ハイ」(どうして美容室が初めてって分かっちゃったの?)

「いつもはどこに行ってるの?」

「エ!アー、マー、イロイロ」(なんだ、そういう意味か)

「あたしケン、よろしくね」斜めに構えて微笑むケンに

「あ、どうも…」と答え(これってやっぱりホンモノ)と思いながらも、

(白く揃った歯と口元が可愛いいなぁ)と麻子は、思った。

 

ケンの見かけは、ごく普通の20才ちょっとの男の子(?)だったが、話し始めると

自然に女言葉だった。

 

「今日はどうなさいますか?」

カウンター横のテーブルでカルテを作り、いろいろ聞かれる。

 

「あ!切って下さい。」

「切るって、どの位?」

「思いっきり。」と耳の所に手を当てると

「え!ショートぉ」と本当に驚いたようにケンが言った。

 

麻子はそういうわけでここ3,4年切った事がなく、背中の方までしっかりと黒い髪が、

伸びていた。

「もったいないわぁ、きれいな髪なのに…今時、こんなにいじめられていない傷んでない

 髪ってほとんどないわよ。」

「でもシャンプーだけで、何もしてませんよ。」

「それがいいのよ、ブリーチやパーマもした事がないわね。」

「えぇ、まぁ…。」

「今時、珍しいわ、でも、これ切っちゃうの?もったいないわ、

切る気になればいつでも 切れるんだから少しずつ短くしていろいろ楽しんでみない?」

「あー、でも、いいです、思いっきり切って下さい。」

(それでなくても少ない小遣いなのに楽しんでいられないよ、

それに、今日は絶対切るって決めてきたんだから…。)と麻子は思う。

麻子のきっぱりした言い方にケンは「ハァ」とため息をついた。

 

「後悔しないかなぁ。」

「ハイ。」

「そっか、じゃ、あたしがうんとステキに切ってあげる。」

そう言って、シャンプー椅子の方へ案内した。

 

ケンのシャンプーは上手だった。かゆい所へ手が届くというのはこういう事だろう。

誰かに頭を洗ってもらうのは小学校以来だった。

麻子は、何気ない素振りをしていたが、本心では少しビクビクしていた。

首筋や耳、髪に触れる指にドキッとして、それを気づかれるのが嫌で身を固くしていた

のだが、ケンは全く気づかない様に邪険に扱った。

邪険に扱うことで麻子の緊張を解いていったのだということは、それからずっと後に

なって分かった。

 

「どういうスタイルにしたいの?」

タオルを頭に巻いて鏡の前に座った麻子に、ケンが聞いた。

「何でもいいです。短く、バッサリと…。」

「何でもいいったって、この中にいいと思うヘアースタイルがある?」と、

ショートヘアーが並ぶ写真集を手渡されたが、外国人の金髪や栗色の柔らかなウェーブや、

ムースで形造ったショートヘアーは、どれも素敵だが、顔の造りが違う自分に似合うとは

思えなかった。

そんな気持ちを察した様に、ケンがもう一冊、高校生の女の子達が変身した写真集を

持ってきた。

しかしそれも自分とは違う世界に生きるタイプの娘達で、パーマをかけたりムースを

つけて形が整えられ、化粧を施した顔が並んでいた。

 

それらを見ながら麻子は思った、今回髪は切るが、今の生き方を変える気はない。

現在、化粧をしていない、これからもする気はない。

この顔に似つかわしいとは思えないからだ。

そして、ドライヤーで形を整える気も全くない。

つまりそこに並ぶヘアースタイルは、維持できないし、する気もない。

 

黙ってページをめくる麻子を見ていたケンは、

「よし、分かった、あたしにまかせてみない?」と言った。

 

ケンは麻子に、普通のこの年頃の娘にはない異質なものを感じていた。

しっかりしている様でいながら、まだ素朴なものを失ってはいない。

そして一見、投げやりの様にも見えるが、その結果がどうあろうと受け止める力を

持っている娘だ。そんな気がしていた。

 

その日、ケンはローマの休日のオードリヘップバーンを思い出しながら麻子の髪を

切った。

後日、親しくなって話すようになった麻子にそのことを話し、二人で大笑いになった。

そして、オードリーというよりは、“狐の懺悔”という感じだったという結論に二人で

達した。

 

美容室に訪れる客によくいるのが「こんな風になりたい」

「こういうヘアースタイルにして下さい。」と、自分の容姿、髪質、頭の形は省みず求めて

くる人だとケンは言う。

そして、出来上がると「こんな感じじゃない」と言い出す。

その度にケンは、ヘアースタイルは変えられても顔かたちまでは変えられないよと思う。

よくマゴにも衣装髪形というが、確かに髪の形によって印象は随分変わる。

しかし、いくら外側を飾っても中身まで変えることは、出来ない。とケンは思う。

よく、痩せているから洋服が似合って、太っているから洋服が合わないという人が居るが、

世の中、これだけサイズが揃っているんだ、自分に洋服を合わせたらよかろうと、

ケンは思う。お前は服の奴隷か!と。

そしてまた、自分の体重さえも自分の思い通りに出来ない奴が服を思い通りに出来る

わけがない。とも思っている。

ケンは一見優しそうに見えるし、女言葉も女以上だし、心の中で筋の通らないことや

毅然としていない人間にこれ程腹を立てているとは、誰も思ってはいないだろう。

 それが、麻子には自分と同じ臭いを感じ同じて、美容師仲間にさえ話さないことを、

知り合って間もなく話すようになっていた。

どれだけ長く付き合っているかを問題にする人がいるが、時間は問題ではないとケンも

麻子も思っている。

そして、その人の事情や内情を知っていることを自慢にしたり、親しさのバロメーター

だと思う人も居るが、ケンも麻子もそういったことには、興味がなかった。

しかし、お互いの心の中の襞(ひだ)の奥に隠れているものを見せることが出来た。

 

ケンは、その一見優しい柔らかい容姿には似合わず辛口だった。

「ねえ、麻ちゃんあなたマゴにも衣装って言葉知ってる?」

「うん、おばあちゃんがよく言う。」

「うち、着付けもやってるでしょうよ。七五三の着付けなんかもやるのね。

そうすると、必ずのように、マゴにも衣装だって誰かいうのよね。

その時マゴが馬の子って書くほうの馬子だって知ってるのかな?って思うのよね。

明らかにお孫さんの孫と勘違いしてる人って多いのよ。」

「あっ、そうか!言われてみれば、おばあちゃんが、

馬に乗る人乗せる人そのまたワラジを作る人って、いろんな仕事の人間が居るけど、

馬子は縄の帯で馬引っぱってんだって言ってた。

その馬子にだってちゃんとした服着せればそれなりになるんだって…。でも、そうかあ

今忘れてたよ。」

「よかった。忘れてても知ってて、あたし、モノを知らない人って好きになれないの。

好きになれないし、もっと嫌いなのは、知ろうとしない人、そういう人を素人(しろうと)

って言うのよ。苦労を知って乗り越えて初めて玄人(くろうと)だからね。」

 ケンは何かを語り始まると、長い、しつこい、うるさい。

しかしそれは、麻子の若く知りたい欲求をどんどん満たし、まるで乾いた吸い取り紙に

綺麗な水が入って行くような満足を覚えた。

麻子にだけするケンの棘や毒のある話し方は、ケンの自虐的な照れと世の中に対する

満たされない思いを感じて麻子には面白かった。

それは麻子の中にも、間違いなく巣食っているものだった。

 

 ケンは何かのせいにするということを極端に嫌った。

「太ってるからもてないって!?ばっかじゃないの。

太ってるからもてないんじゃあないわよ。自分を持ってないからもてないんだって!

もてないことを太ってるせいにして無理なダイエットして痩せたって魅力なんてありゃ

しないわよ。太ったブスが痩せて貧相なブスになるだけよ!」

「若いから好きなことしていい」とか「若いから出来るのよ」なんていう人がいると、

その場では「そうですよね。」なんてニッコリ笑って聞いているが、

「ばっかじゃなかろか!若いから出来るんだなんて言ってる奴は、若くなったって

出きゃあしないよ。それに若かったら何してもいいなんて甘えんてんじゃないよ!」と

必ず麻子に言うのだ。

ケンは、何かのせいにすることと、何かを見比べることを異常に拒絶した。

それは、麻子にだけしか見せない姿だったが、優しい綺麗な顔を歪め吐き捨てるように

言うのだ。

「こっちの方がいいっていう人って大っ嫌い! 

自分に自信がないから何でも比べて、自分に有利なものを手にいれようとしてるんだ

嫌らしいコジキ根性だわ。

昨日も、お客さん同士で子供自慢がはじまっちゃって、男の子の方が優しいとか

可愛いとか言い出す人が居てさ。

女の子の方が親から離れないからいいとか、男の子は女が出来たら女のいうなりで

取られちゃうとか、年取って面倒見てくれるのは娘だとか、自分の都合でしか考えてい

ないのよね。どうしてそのまんまのもので、喜べないのかしら。

自分に損になっても得になってもそんなことに囚われないで認めたらいいのに…。

それに男の子を誉めようとすると女の子を否定して、女の子を認める時は男の子を

否定してみせるんだよね。

何かを認める時、それと違うものを否定する事とセットにしなきゃ気がすまいないの。

あと嬉しいことは、必ず自慢しなきゃ気がすまないのよね」ケンの最初の勢いは

話すうちに落ち着いてくる。

すると、反省が始まる。

「結局、あたしだって、こうして自分の価値観と好き嫌いで物事判断しているのよね。

こうやって怒ってるのも、自分の思うようじゃないことへの八つ当たりかもしれないわ。」

麻子は、怒っている時のケンも、冷静な時のケンも違った意味で大好きだった。

 

二人は、度々公園で会って話しをするようになっていた。

しかし、不思議なことに連絡をして会ったことは、一度もなかった。

最初に美容室に行った時、髪を切りながら、ケンが社交辞令で、麻子に何処に住んで

いるのかと尋ね、麻子が住まいを教えた。

ケンは、そこに程近いところにアパートを借りて住んでいた。

その近所にある公園に麻子は、以前からよく行っていた。

 そして、ある日、麻子が公園に行くとケンがいたのだ。

麻子は、ケンが来ているんじゃないかな?いたらいいな、と期待していた。

だから、ケンが麻子の好きな大きな木の下のベンチに座っているのを見つけた時には、

心臓がドキドキしてしまった。

 麻子は文庫本を持って公園に来る。ケンもよく公園に来ているという。

それまでにケンに会わなかったのは不思議だが、会っていても気が付かなかったのかも

しれない。

公園で二人が会うのは偶然のようであるが、なんだか今日は来ているような気がしたり、

公園に行きたい気持ちに襲われるのだ。

 公園で出会って話しをするようになってから、麻子はよく笑うようになった。

学校でも、「最近麻ちゃん綺麗になって、性格、丸くなったけど恋でもしてるの?」と

言われたりした。

ケンは、「人の一番の化粧は、笑顔よ。そして一番の衣装は姿勢よ。生き方よ」と言った。

ケンは、見かけが美しいということをとても大事にした。

それはただの見かけでなく、毅然としているとか、しゃんとしているとか、

惨めったらしくないとか、一本筋が通っているといった事が大事で、

ダサいとか、知性がないとか、だらしないといったことを極端に嫌った。

 

どういう訳でそうなったのかどうしても思い出せないのだが、一度だけ二人で海に

行ったことがあった。

二人は駅まで歩いて行って、ローカル線の電車に乗り、ひなびた駅で降りた。

そこから海に続く道は堅くなった砂と砂利で、家から履いてきた突っ掛けサンダルに

乾いた砂土が入りこみ、足が滑った。

もうすぐ、五月の連休が来る頃だった。

暖かい風が吹いて、二人は草のまばらに生えている丘の上に腰を下ろした。

それから、ずっと海を見ていた。

なぜだか、電車に乗る前から、二人とも一言も口をきかなかった。

夕方になって、風が変わってきた。

冷たくなった腕と腕の寄り添っているところだけが暖かかった

 

ケンとは、麻子が成人してから二、三回一緒に飲みに行った。

酒が入るとやたらと陽気になる麻子を、酒の殆ど飲めないケンは嬉しそうに見ていた。

「二人は恋人同士か?」などと酔って不躾に聞いてくる輩がいると、麻子は嬉しかったが、

ケンは「いやーん、あたし女は駄目なのよ。この子はお友達、唯一の友達、

大事な妹みたいなもんよ。」と必ず言った。

それは、必要以上にオネエ言葉で、麻子を守ろうとしているように感じられた。

すると調子に乗った酔っ払いは、

「おまえ、男のどこがいいんだ?俺は男と寝るなんて気持ち悪くて考えられねえ。」と

ケンに言ってきた。

「あなた、女を好きになるのに理由がある?理屈じゃあないでしょ?

あたしは男が好きなんじゃないの、好きになる人が男なだけなの!」とケンは言った。

そして、後で「ノンケの嫌なところは、自分は正常で正当だと思っているところよ、

そして、オカマを馬鹿にしてくるの。まあ、みんながそうだって訳じゃないけどね。

オカマとホモは違うのよ、まあどっちでもいいけど…。

でも、オカマにも嫌な人っているのよ。

男なら誰にでも尻尾振っちゃて、女に敵愾心(てきがいしん)持ってるオカマ。

まあ、ノンケにも若くて綺麗なら誰でもいいって馬鹿が多いけどね。」と言った。

 

ケンは常識に囚われている、縛られている人が嫌いだと言った。

そして、常識を知らない人はもっと嫌いだと言った。

 

そして、ある日、ケンは姿を消した。

麻子は、しばらくケンが居なくなったことに気が付かなかった。

「麻ちゃん、それはだめよ。」と心配してくれ、

「麻ちゃんは、妹のような気がする」と言うケンは、姉か兄のようだった。

ケンが居なくなって、麻子の胸にぽっかりと穴が空いた。

 

人は少しだらしなくて、意気地なしで、弱虫でいいんだと、麻子は思う。

そして、ケンは自分に厳しすぎたんだと思うと、悲しみと怒りがこみ上げてくるのだった。