ブス(ムカドン)

ムカっときてドンと怒り出すのでムカドンと呼ばれているムカドンは、

そういった類のテレビ番組はムカツクので、ナルベク見ないようにしているのだが、

家族が見ているので、ついうっかり見てしまった。

そして、ムカムカが始まった。

しかし、家族にそれを言うと「お父さんはウルサイ!」と言われることは目に見えて

いるので黙っていたが、腹立ちが爆発しそうになってきた。

別の部屋に行ってしまえば済むことだったのだが、そこで、ムカドンは考え始めた。

自分は何に対してこんなに腹が立っているのだろうか?と。

そのテレビは、自分の容姿に満足出来ずに生きてきたという女性が出てきて、

「この容姿のせいでこんなに苦しい、悲しい目にあった」と涙ながらに訴える。

それを聞いたテレビ側の人間が、殊更大袈裟にその時の様子を再現する。

ムカドンにはそう見えた。

綺麗になりたいと言っているくせに、碌に化粧もせず髪も構わない女性たち。

みなりにも気を遣っていると思えない女性たちが、努力した様子もなく自らをさらし者に

していた。

やけに太っていて自己管理が出来ていないと思われる女性もいた。

その姿は、出来ることをしようともせず、ないものねだりをしている様に見えた。

そして、みな一様に顔が暗い。そして愚痴の連発。

自分の容姿が醜いオカゲデ、苛めにあった。

男に貢いでしまった。男に捨てられた。

子供に、死んだことにされ、学校にも来るなと言われた。

恋愛が出来ない。原因は全て自分の容姿のせいだとノタマウ。

そして、綺麗になって見返したい。と言う。

ブスなので、人に好かれず、友達が出来ず、彼氏が出来ず、わが子に愛されず、

ブスなので、自分を認められず、好きになれず、コンプレックスの塊である、というのだ

だから、ブスな自分を捨てようとしている。らしい。

彼女たちの不幸の原因は、全てその容姿のせいにされている。

他人の手を借りて、形だけを変える言い訳をする為に、必要以上に自分を貶(おとし)め

醜く見せている。ムカドンには、そう見えた。

そして、人の手を借りて表面的にだけ違う形が作られた。

整形手術を施し、一流?のヘアーやメイクアーティストが腕を振るい、

馬子にも衣装を着せられる。

そこには、彼女たちの意思も、思想も、哲学も、誇りも、見えない。

 

最後に、「綺麗になった私を見てください。これから新しい自分を生きていきます。」

と言いながら形だけは変化した人が出てくる。

これぞ“砂上の楼閣”以外の何モノでもない。とムカドンは思った。

もっと醜い人がいる、だから我慢しろ、などと言うつもりは全くない。

他人の不幸を聞いて、「自分の方がまだましだ」などという低俗極まりない輩が多いから

世の中ここまで恥知らずとバカが増えてしまったのだ。とムカドンは思っている。

他に怠け者がいようが、泥棒がいようが、殺人者がいようが

貧困や難病に苦しむ人がいようが、自分はそれよりましだ。と言った瞬間に

それを言った本人が最低の人間になっていることに気が付いていない。

 

ムカドンは、形を直す前にやるべきことがあるだろうと思う。

それは何かと言ったら、どういう形であっても先ずはそれを受け入れ認める、強く柔軟な

気持ちを持たねばならないのだ。

全ての不幸の言い訳に、ブスを利用するな!

ブスだからと排除したり、苛めをするような低俗な者と、いつまでも関わっている必要は

ないじゃないか。

いやむしろ、低俗な人間を見分けるいいバリアーにふるいにかけるフィルターなろうと

いうものだ。

ブスだから友達が出来ないと言うが、その人がブスでなくなればそれだけで友達が

出来るのだろうか?

ブスだからといって友達にならないような人間と、自らが形を変えてまで友達になって

何が嬉しいのか。とムカドンは思う。

そして、それは本当の友達か?!

ブスだから恋人に貢がなければ嫌われ逃げられてしまう?って?

そして貢いで捨てられた?ブスだから。

果たして本当にそうなのだろうか?

ブスを捨てた男は、例え相手が美人であっても、貢ぎながら、びくびく顔色を見ながら

付きまとう女がいたら、きっとバカにして利用し、捨てることになるだろう。

そういう男を求める女は、自分をバカにし、男もバカにしている。

本当に、男は女がブスだから嫌いになったのだろうか?

実は、貢がれて喜んでいる自分が嫌になったのではないだろうか。

自分を貶める(おとしめる)ことが謙虚だと勘違いしている者は多い。

自分を貶めることは、傲慢であるということに気付くべきだ。と思う。

先ず自分が、自分を認めなければ他人も認められず、畏敬(いけい)の念を持つことも

出来ず、リスペクト(敬意)を持った関係など有り得ないであろう。

人を尊重するというのは、他人のことだけではない、自らを尊重する事が基本だ。

親の顔がブスだからといって、親を毛嫌いし、恥ずかしがるような子供ならば、親が顔

を直すことより、先ずはその子の本当に何が大事かを教え、本当の恥というものを教える

べきではないのか。

人であれ、なんであれ、物事の判断を表面だけでするということは、浅はかな行為であり、

愚かな人間のすることあり、それは恥ずかしいことなのだということを、きちんと教える

事が、親や大人の義務、務めではないのか。

形は神に与えられしもの、それを大切に向上させていくのが自分の務めである。

ブスが恥ずかしいのでなく、あるがままの形を受け入れもせず、日々の努力を怠っている

ことが恥ずかしいことなのだ。

ありのままの形を恥ずかしいと思うことが、恥ずかしいのだ。

そして、表面だけを見てバカにするということも、恥ずかしいことだ。

若しかして、その子供は、そのことをきちんと教えられない親が嫌なのであって、

親がブスなことが嫌な訳ではないのではないかとムカドンは思った。

しかし、最後に出てきた娘が、親が綺麗になったから今度は、彼氏に合わせてあげると

言うのを聞いて、残念ながらそこまで考えがあるとは思えなかった。

 

自分の顔が醜いからと、暗い毎日を送ってきた娘を見続けてきた親が、

「こんな顔に生んでしまって…。」という心中を思ったが、親が顔を作った訳ではない。

そこに、在るものは全て与えられしものである。

そして、全ての物事にはなんらかの意味が隠れているとムカドンは思っている。

それを、見つけ出していくことが、生きていく意味のひとつなのではないか、と思う。

現実を嘆くことから、現実に潜む課題を見つけ出し、それにチャレンジしていくという

心持ちになったら、そこに在るものが愛しくなろう。

綺麗になって私をバカにした人を見返してやりたいと、バカのグループから

脱出しようとしていない者もいた。

ブスだからとバカにするようなバカは、整形した行為はバカにしないのだろうか?

綺麗になったからと、その途端に手のひらを返してくるような者と繋がる為に

形を変えたとしても、今までと何も変わりがないような気がする。

若しかしたら、金持ちが自分の所に人が集まってくるのは、自分に魅力があるのでなく

金が目当てではないだろうかと疑うように、ブスでない自分だから幸せがやってきたの

ではないかと、変えてしまった自分に自信を持てないままなのではないだろうか?

タレントが、今度は彼氏だね。と何度も言っていたが、それ程、彼氏は重要なことなのか?

その中身はどうでも五体満足で、彼氏が出来て、結婚し家庭を持ち、子供を持てば安心?

いや、その形を否定しているのでは断じてない。

しかし、形さえ整っていればそれでいいのだろうか?

自分に本当の意味での自信を持てず、形だけに囚われる無意味さと虚しさを彼女は、

知らないのだろうか?

満足の価値観も実感も自分の中にある。

今の自分を大切にせず嫌いながら、その形だけを変えれば好きになり大事に出来るのか?

嫌いな人のことは邪険に扱い、好きな人には媚びへつらう。

綺麗な人はちやほやされて、ブスは苛められる。

今まで自分がされてきたことを、自らも自らにむかって行うのか。

変身前の彼女たちは、化粧もせず、装うこともせず、笑顔もなく、背を丸めている。

他人の手によって形を変えた彼女たちは、背を伸ばし、笑顔を浮かべていた。

その落差を見せるのが、テレビの狙いなのだろう。

消えてしまったものを、消しさったものを、笑いものにして…。

 

人を利用しない 人に利用されない

優しくて 強い 筋の通った 

役に立つ人におなりなさい

 

今からが 始まり

その気になれば いつでも始められる

その気になって始めれば…

 

 砂上の楼閣=砂の上に楼閣(高く構えた建物)を作っても持ちこたえることはできない。

  いくら立派なものを作っても土台、基礎がなければその姿を保つことは出来ない。

 

 何時からだろう、目に見えるものばかりに価値を置くようになってしまったのは。