ブッダ 真理の言葉

 

 っていうNHKの本(佐々木 閑著)が目に入って、思わず買ったのは9月8日。

母の病院の帰りだった。

 

 「仏教は心の病院」とその表紙にあり、“苦しみ”を消すには、自分自身を変えるしか

ない。とあった。

 疲れて帰宅したが、その晩一気に読んだ。

何やら謎が解けた気がした。

 

 ただ信心すれば助けが来るとか、何も考えず念仏を唱えれば救済される。ということに

私は、どうしても心から納得することができないできた。(それが必要な人や時代もある

んだろうけど)

 親孝行が、立派な墓を建てることや出世するという形的なことで評価されるということ

にも違和感と拒否の気持ちがあった。

 これを言うと誤解をされると思いながら言う。

誰かを好きだと思う時、何かを持っていると思った時、そこにある独占欲と執着を感じ、

どうしても気持ちの悪いものを感じ続けてきた。

 私は、自分の好きな人モノの事となると人を押しのけ「我こそはそれ知っている理解者

だ!私のものだ!」と暴れ出す何かに我ながら疲れてきた。

 ブッダの言葉に

『愚かな人は『私には息子がいる』『私には財産がある』などといってそれで思い悩むが、

自分自身がそもそも自分のものではない。

ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。

財産が自分のものであったりしようか。』

とあるという。

 

自分は、楽しいと思うこともあるし、嬉しいこともある。

自分は色んな意味で恵まれていると感謝している。と思っている。

でも、毎日生きていることに辛さを感じ、何だか何かがスッキリしない。

その話をした時「えー、寿玄夢さんでもそうなんですか?!」と言う人が居たが、

それがない人が居るんだろうか。

 どんな金持ちだって才能あふれる人だって、みんなその人なりの何かにぶち当たって

いるんじゃないか、と私は思っている。

 だから、深く考えるようになるんじゃないだろうか。

でも考えても出てこない答えがある。答えの見えないもどかしさ。

そのずっと感じてきたもどかしさの答えが今回の“ブッダの言葉”に見えた気がした。

解説するとズレル気がするので、原文のままを、ここに記(しる)す。

 

 『ブッダの言葉』

『自分の救済者は、自分自身である。他の誰が救ってくれようか。

自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ。』

 

『ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作りだされる。

もし人が汚れた心で話し、行動するなら、その人には苦しみが付き従う。

あたかも車輪が、それを牽(ひ)く牛の足に付き従うように』

 

『ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作りだされる。

もし人が清らかな心で話し、行動するなら、その人には楽が付き従う。

あたかも身体から離れることのない影のように』

 

『学ぶことの少ない者は、牛のように老いていく。

肉ばかり増えて智慧は増えない』

 

『他人の間違いに目を向けるな。

他人がしたこと、しなかったことに目を向けるな。

ただ、自分がやったこと、やらなかったことだけを見つめよ』

 

『だめになることをいくらたくさん語っても、それを実践しなければ怠け者である。

それはたとえば牛飼いが他人の牛を勘定しているようなものだ。

そういう者は修行者とは言えない』

 

『怒らないことによって怒りに打ち勝て。

善いことによって善からぬことに打ち勝て。

布施をすることによって物惜しみに打ち勝て。

真実によって嘘つきに打ち勝て。』

 

『愛慕(あいぼ)の情から憂いが生じ、愛慕の情から恐れが生じる。

愛慕の情を離れた者には憂いがない。まして恐れなど何処にもない。』

 

『この世では、恨みが恨みによって鎮(しず)まるということは絶対にありえない。

恨みは、恨みを捨てることによって鎮まる。

これは永遠の真理である。』

 

『骨が組み合わさって城郭(じょうかく)が作られ、そこに血と肉が塗られ、その中に

『老い』と『死』と『傲慢(ごうまん)』と『ごまかし』が鎮座している。』

 

釈迦は、絶対神や創造主のような存在を認めなかったという。

 

『子を亡くした親の悲しみは、親の存在そのものの中に生きて生き続けていく。

子を亡くした親が、ひとの命の尊さを深く感得し、自分と同じ境遇の人達に共感し、

心優しく生きていくなら、それは亡くなった子がそうさせているのであって、

子は親と一緒に生きていくということになる』

 

 この考え方は、存在物そのものよりも、それを受け入れる私たちの心にこそ真実がある。

という思想で、別の観点から言えば、亡くなった人があとに残す遺骸や遺骨などには、

さほど重要な意味がない、ということになる。

 

 ブッダは臨終に際して

『私の死後は、お前たち自身の努力と、私の残した言葉だけを大切にして修行に励むよう

に(自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう))』

と遺言し、他のことにはまるで無頓着だった。という。

そんな師の教えを守り、弟子たちはブッダの遺骨に見向きもしなかった。という。

 

 なのに「仏舎利」というブッダの骨を埋めた墓が世界中にある。

それは何故か、在家の一般信者が世間的な価値観でものを考え仏舎利を欲しがり、火葬に

して八つの地方の記念碑に分骨しした。

それを、百〜二百年後にアショーカ王が一つにまとめ八万四千に分割し、世界中に

仏塔が建立された。からだという

ということは、日本のあちこちにある五重塔や七重塔もそうでブッダの本来の希望では

ない。ということなのかな。

 

信仰というよりも、神秘的な力を信じず、生きて行く上での苦悩をあくまでも自分の

問題と考え、自己改良の中に解決策を求めていく。

その自己鍛錬を自分自身が行っていくのだ。という潔さに納得しスッキリした。

誰かと親しいとか親しくないとかでない、何処に生まれたとかでなく、何かを持ってる

とか持っていない。などという形(見えるもの、見えないもの)による縛りから自由に

なりたいと思ってきた。

 自由になるとは、拒否するということではない。

 

『恐怖にかられた人々は、山に林に園地に樹木に霊域にと、さまざまな場所に救いを求めようとする。

しかし、それは安穏な救済所ではない。

それは最上の救済所ではない。

そのような救済所へ来たところで、すべての苦しみから逃れることなど出来ないのだ』

 

『努め励むことは、死を離れた境地である。

怠り怠けることは、死んでいる状況ある。

努め励んでいる人々は、死ぬことがなく、怠り怠けている人たちは、死んでいるような

ものだ』

 

『戦場において百万人に勝つよりも、たった一つの自分自身に勝つことのできる者こそが

最高の勝者である』

 

 『ダンマパダ』は「自分をよりどころとせよ」「自分を鍛錬せよ」と教える。

ブッダは、亡くなる前に弟子のアーナンダを呼んで諭す。

『自分自身をよりどころとして暮せ。

ほかのものを救いのよりどころとしてはならない。

法(教え)を島(日本では灯明と訳されている、救いのよりどころ)として暮せ。

ほかのものを救いのよりどころとしてはならない』

 

 私は、救いのよりどころが、釈迦の仏教、大乗仏教、キリスト教、哲学、思想、人の

生きた道、など宗教と呼ばれているものだけでなく、島(灯明)となってよりどころと

なり導く杖は一つではないと思ってきた。

 佐々木氏も

「大切なことは、選ぶべき杖がたくさんあるという事実を知っていること」だと書いて

いる。

 

本の表紙に「苦しみを消すには、自分自身を変えるしかない」とあったが、

私は「苦しみを消すことは、自分自身で出来る」としたい。

                 自分自身を変えていくことで。

 

 あー、楽になりてぇ。