誰か教えてくれ!

 今、5月6日AM9時、4チャンネルで水俣病について話していた白髪の男性。

NHKのアナウンサーで水俣について取材して40年水俣病について調査し共に戦って

きたという人の名前を教えて欲しい。きっと本を出してると思うのだ。

 私は、昭和29年生まれだ。19歳の年に学校の宿題で石牟礼道子の「苦界浄土」に

ついてレポートを提出する機会に恵まれた。

その本の中で「昭和31年8月29日の第一回厚生省への報告」の冒頭で

昭和29年から当地方において散発的に発生した痙性失調性麻痺と言語障害を主症状と

する原因不明の疾患に遭遇した。ところが、本年4月から左記同様の患者が多数発見され

と始まる。

昭和29年、私が生まれた年に始まっていたのだということに何かの因縁を感じた。

それが、水俣病との出会いだった。

それと同じ頃に有吉佐和子の「複合汚染」と出合った。

それらの本は、ハンセン氏病の「いのちの初夜」と共に私にとって人生が変わるほどの

衝撃を与えた。

 今年、公害の原点といわれる「水俣病」の公式認定1956年から50年が経った。

しかし、何が変わったのだろうか?

今回、「助けになれなかったことを残念に思います」という行政からの挨拶を聞いた。

「助けになれなかった」のではないだろう「助けようとしなかった」のだろう。

先ず最初は、被害を認めなかった。

次ぎに、認めても被害の拡大を防ぐことをしなかった。

1956年に公害としての公式認定がされてからも1968年まで工場は動き続けた。

国民総生産に目の色を変えていた国、行政の利益、都合のために。

そして、被害を拡大させた。

患者を守り助ける為の法律を作ろうとしなかったばかりか、目の前で水俣病に苦しむ

人たちを保護する法律もあったにもかかわらず、行使されなかったのだ。

 

 以前、私の家に子供を集めて遊ばせていたことがあった。

当時、屋根裏に上がることが流行ったが、断熱材が身体に良くないこととボードが破れ

落ちたら危ないからと禁止した。

 しかし、こっそり上って、ボードをぶち抜いた。

幸い怪我はなかったが、どうして約束を破ったのかと私が怒ると、真っ青な顔で謝る子共

達の横から勉強が出来リーダーシップをとっている子が、

「すみませんでした。あの時、止めようって止めなかった僕が悪いんです」と言ってきた。

 しかし、後に「屋根裏には上らないって約束したんだから嫌だ」という子達に向かって

「そんなこと言うなら、もう一緒に遊ばない、仲間に入れない」と脅し

「分からなければ大丈夫だから」と先導して上ったのは、その子だったことが分かった。

国は、行政は、言葉のすり替えが巧みだ。

いや、責任逃れと誤魔化しの言葉だということが、バレバレなのだから巧みではないか。

「助けられなかった」というが、行政は助けなかったどころか、加害者を見逃し、放置し

たということは、共犯、罪人であるのだ。

 

「適切な対応をしなかったことをお詫びします」と首相が言っていた。

じゃあ、今、始めているのか?

 

水俣病を明らかにする為の追跡調査は、行われておらず、なにも解明されていない。

発展途上のアジアの国々で、今現在、同じ状態が、現在進行形で進んでいるという。

 

危険を知りながら放置した罪は、アスベスト、薬害エイズと全く同じだ。

罪は償い正していかねばならない。

事実を明らかにし、解明し、今後どのようにしていくかを考え、実行していかねばなら

ない。

過ちを償い、正し、二度と同じ過ちを犯さないために…。

水俣病患者が言った。

「この苦しみが、希望と未来につながるまで、生き続け、頑張ります」

          

                 コレを読んだ人が送ってくれたものです。

 

『テレビ番組からの抜粋』

 

今週、熊本県水俣市で、水俣病犠牲者慰霊式が行われた。
公式確認から50年、未だに続く被害。
(胎児性水俣病患者 金子雄二さん)
「他の人は水俣病は終わったというけど、水俣病は終わっていない」

(ノーモア・ミナマタ国賠訴訟原告 山口広則さん)
「県・国、何もしようとしない。救済しようという考え方がないと。
これでもう水俣病は終わりにしようただそれだけなんです」

母親の胎内で水俣病となった金子雄二さん50歳。
金子さんは今、胎児性水俣病患者らの授産施設で働いている。
仕事は押し花をあしらった名刺作りだ。
父親は金子さんが生まれる3ケ月前に水俣病で亡くなった。
水俣病という苦難を背負い、生き抜いてきた50年だった。

熊本県から鹿児島県に広がる不知火海。
琵琶湖とほぼ同じ広さのこの海は、昔から「魚わく海」と呼ばれていた。
海の幸に恵まれたこの海で発生したのが、公害の原点といわれる水俣病だ。

「もはや戦後ではない」と日本が高度経済成長に驀進し始めた1956年。
この年5月1日、熊本県の水俣保健所に「奇病が発生している」との報告があった。
この日が水俣病の公式確認の日となった。
原因は日本を代表する化学メーカー・チッソが流した排水に含まれていた有機水銀。
有機水銀に汚染された魚介類を食べた不知火海沿岸の住民が次々と水俣病になったのだ。
有機水銀により脳の組織を侵された住民達は、
歩行障害や手足の感覚障害などを発症。
劇症の患者は短期間で亡くなっていった。

(熊本学園大学 原田正純教授)
「環境汚染で、しかも食物連鎖を通して起こった事件というのは水俣病が、
実は人類初めての経験。だから水俣病がおこった時点で、
人類に対して非常に大きな警告を発していたわけですよ」

しかし国は公式確認後も、汚染された魚介類の販売や漁獲を禁じること
やチッソからの排水を停止する法的措置を一切とらなかった。

(熊本学園大学 原田正純教授)
「当時、高度経済成長、今ここで被害をつっつき出して
チッソという化学産業をダメージうけたら日本の経済はダメになるんじゃないか。
そういう論議ですよね。中央では。
そのことが問題の対応を非常に遅らせてきた」

チッソが有機水銀を含む排水を止めたのは68年5月。
それから4ケ月後の9月になって、政府は水俣病はチッソによる公害だと認定した。
公式確認からすでに12年もたってのことだった。
こうした中で、母親の胎内で水俣病に侵された胎児性水俣病患者が次々と生まれた。

その数は60人とも90人ともいわれる。
中には学校にも行けず、病院で子ども時代を過ごすしかなかった患者も多い。
幼い頃から入院していた長井さんは、当時、テレビに映る姿をみて、
自分が水俣病であることを知った。

(胎児性水俣病患者 長井 勇さん)
「初めて(水俣病と)知って、びっくりした」

(胎児性水俣病患者 加賀田清子さん)
「病気になるために生まれてのかなと思う」

(胎児性水俣病患者 永本賢二さん)
「もし排水が止められていれば、僕たち(の病気)も起きなかった」

大きな転機が訪れたのはおととし10月。
最高裁は被害の拡大防止を怠ったとして「国と熊本県の責任」を認めた。
これですべての被害者が救済され、全面解決すると思われたのだが・・・・・。
最高裁の判決後、国が被害者に提示したのは保健手帳。
しかし被害者を水俣病とは認めず、医療費の自己負担分を補助するだけの対策だった。
更に認定申請や訴訟をしないという条件までつけた。
実は水俣病の被害者は数万人いるともいわれる。
しかしこれまでに国が水俣病患者と認定したのは2265人だけ。
被害は水俣市周辺のみならず不知火海一円に広がっている。
水俣市の沖合いの島で生まれ育った山口さんは、
子どもの頃から自分が水俣病だと知らず、去年、初めて水俣病検診を受けた。

(山口広則さん)
「私たちが小学校の頃からカラス曲がりというんですか、
こむら返りというんですかそれはほとんどの子ども達が持っているんですよ。
それが伸ばさんとものすごく痛いんです。
それが水俣病の症状の一つとも知らず、人間なら誰しもするんだと。」

一見、元気そうに見える山口さんだが、実は頭痛薬が欠かせない。
突然襲う激痛。年々ひどくなる全身の痺れ。さらに・・・。

(山口広則さん)
「思い切ってよかで、よかで。アザでるくらいよかで。」
山口さんは水俣病による感覚障害でつねっても痛みを感じることができない。

(水俣協立病院 高岡 滋総院長)
「認定患者さん以外はメチル水銀障害もないと水俣病じゃないんだと
  ずっとされてきたわけです。
  実際私も患者さんを診て、やっぱり(症状が)
  こんなにひどかったと逆にこちらが認識させられた」

しかし山口さんは、医師に水俣病と診断されても
国の基準では水俣病とは認定されない。
(山口広則さん)
「一昨年の最高裁判決が出たにも拘わらず何の救済すらしようとしない。
(国は)手帳だけで幕引きをしようと」
山口さん達被害者は、国などを相手に去年10月、
損害賠償を求めて熊本地裁に提訴。
原告は、千人を超える。
原告の中には、差別と偏見をおそれ今まで沈黙を強いられてきた被害者がいる。

岩下さんは、若い頃からひどい痺れや、歩行障害に苦しんできた。
夫・斉さんは視力も失い、ほとんど寝たきりの日々だ。
一昨年、夫婦で初めて検診を受け、水俣病と診断された。
(岩下セキノさん)
「(医師から)もっと早くどうして出さんかったですか、こんなになるまでっちゅて。
  恥ずかしいやらきついやらですね。
  (水俣病の)嫁さんももらうな、
  水俣病であれば嫁にも行くなくらいの気持ちだったですから」
実は岩下さんの長女・タミ子ちゃんは、1966年、水俣病の疑いで亡くなっていた。
わずか7歳の命だった。
(岩下セキノさん)
「手と足と痺れて、かなわんことになって、歩けなくなったんです。」
残されたのは3枚の写真。
美容師なるのが夢だったタミ子ちゃんは、今年47歳になっているはずだった。
(岩下セキノさん)
「(自分の)病気がきつくなればなるほど思い出して悲しんで、何年たっても悲しみは。
  今日はよかった楽しかったおもしろかったってことは全然なくて
  今までも暮らしてきたんです」

最高裁の判決後も、解決しない救済問題。

(園田昭人弁護士)
「今の混乱招いているのは行政の被害軽視が原因だと思います。
  不知火沿岸の人達の健康調査、未だにやられていないわけです。
  その結果、被害の広がりと実態が未だに解明されていない」

(小池環境大臣)
「水俣病の拡大を防げなかったことをお詫びします」
小池環境大臣は水俣病犠牲者慰霊式でこう謝罪した。
だが全面解決への対策について、一言も触れはしなかった。

胎児性水俣病患者達は、慰霊式でこう宣言した。
「この悲劇を希望と未来につながる日まで私たちは生き抜きます」
被害者達は救済を求め、新たな裁判を闘っている。
公式確認から50年。
水俣病は、まだ終わってはいない。

 

 白髪の男性は、宮澤信夫という名前であることが分かった。