ダッコちゃん

 今年56歳になったカズコが、小学校に入る頃だった。

ダッコちゃんが流行った。

黒いビニールで出来ていたそれは、丸く輪を作った手で腕に掴(つか)まるように

なっていた。

 

 カズコが、家の前の路地で遊んでいると、ハトコのヨシエがやって来た。

その腕には、ダッコちゃんが掴まっていた。

ヨシエは、カズコの目の前にその腕を突き出して言った。

「カズちゃんは、買ってもらえないでしょ」

カズコはそれが無性に腹が立った。

いつもならすぐに遊び始めるヨシエに背を向け、家の中に入った。

 カズコの父は、病気で長いこと家で寝ていた。

病院に入る、入っているお金はなかった。

 当時、年寄りでも病人でも、弱った人間は家で寝ていた。

病院や施設に入れるだけの経済力がなかったといったらそれまでだが、本人が家に居る

ことを望んだ。

 それは、ある意味、幸せなことだったのかもしれない。

 

 たたきのある土間から、奥にふた間だけの家に入ったカズコは、

「オトーちゃん、ダッコちゃんが欲しい!」と布団に横になっている父に言った。

「あー、ダッコちゃんかぁ」と、父は笑顔で身を起こした。

そして、「オトーちゃんは、ダッコちゃんは作れないなぁ」と言うのを聞いて

(あっ、ウチは、ダッコちゃんは買えないんだ)と、カズコは気がついた。

申し訳ないような気持ちになって、話を逸らした。

 母にそのことを話すと、

「幸せには色んな幸せがあってね。

ヨシエちゃんには買ってもらえる幸せ、カズコには作ってもらえる幸せがあるんだね」

と、母は言った。

 カズコの家では、オモチャは買うものでなく作るものだった。

 

母親に連れられて他所の家に行くと、テーブルの上にフタ付きの菓子鉢があったり、

ドンブリに盛られた漬物、煮物などがあって、そこのオバサンが

「どーぞ、召し上がれ」と、長い箸でそれを取ってくれた。

それは、カズコの好きな物ばかりではなかった。

困った顔をしているカズコに母は、後で言った。

「そういう時は、『いらない』って、『これ、キライ』って言わないんだよ。

『アリガトォ』って言うんだよ。そして、ニッコリ笑っていただくんだよ」

それは、キンピラだったり、フキのお煮付けだったりして、カズコの手の上に直接乗せ

られた。

「そうしたら、オバサンがちょっと目を離した隙にお母ちゃんが、パクパクって食べて

あげるからね」と、母親はひょうきんに食べる真似をしてカズコを笑わせた。

 

自分は明るい性格だと、ヨシエはいうが、

人を馬鹿にして笑うことがユーモアだと思っているんじゃないか、とカズコは思う。

誰かが禿げてるなどという話になると、ヨシエのツボに入ってアハアハと涙をこぼす

ほど笑うが、カズコは笑えない。

人が転んで不様な格好になったりしたら、ヨシエは大喜びだ。

そういう時に、カズコが一緒に笑わないと、

「アンタって、ホント、暗い性格だよね。友達、居ないでしょ!」とヨシエは言う。

 

二人が所帯を持ってから、親戚のオヨバレがあった。それは、近くの料亭で行われた。

そこが、東京の一流のレストランやホテルによく行っているヨシエの、お気に召さなかっ

たらしかった。

 座敷に座ることに文句を付けたのを皮切りに、料理の盛り付け、器、味付けに至るまで

どこかの店を引き合いに出して文句を言った。

 隣に座っていた旦那が見かねて

「オイ、それはあんまり失礼だろう」と言うと

「別にここの店の文句を言ってるんであって、佐山さんに文句を言ってるわけじゃない

わよ!」と逆切れした。

宴会が終わって、皆が帰り支度を始めると、仲居が透明パックと輪ゴムポリ袋を持って

きた。

残った料理を持っていけるようにという配慮だった。

「あのぉ、刺身とか生ものはお持ち帰りになりませんようにお願いいたします」と仲居は

言った。

「良かったー、ウチの息子に持っていこうっと」と育ち盛りの子を持つケイコさんが言い

食べ切れずに残っていたフライや天婦羅を詰め始めた。

周りの人も次々にパックに詰めている。

 そこは、沢山出すということで評判を得ている店だった。

叔母の一人が、何もしないで座っているヨシエに向かって

「あんたも、貰っていったら?」と声を掛けた。

その瞬間、

「いらない!ウチは、残り物は食べない主義だから!」とヨシエは言った。

 

 最近、今年20歳になるカズコの次女、マユコが髪を切った。

「まあ、人間の娘の顔ではあるが、ちょっと個性的な顔立ちに個性的な髪型だね」と

カズコが言うと、

「アタシらしいでしょ」とマユコはニヤッとした。

 ミンナに「マユコらしいよ、カッコいいよ」と言われて、

「そうかぁ」と娘が答えているのを見たカズコは、

「そういう時は、ニッコリ笑って『アリガトォ』って言うんだよ」と、7年前に亡くした

母を思い出して、真似して言った。

 父は、カズコが中学に入る前に他界し、母は女手一つでカズコと弟を育てた。

頑張り屋で優しい母だったと、亡くした感傷でなくカズコは思う。

 

そこへ、たまたま用事でヨシエが来た。

「あら、マユちゃん、髪切ったの?」と言うヨシエに

「うん」と、マユコは笑いながらヒョウキンにシナを作り、髪をなで上げて見せた。

「ふーん」と、ヨシエはマユコを斜めに見た。

ふーん、と言ったきりヨシエは何も言わない。

「ネコ娘みたいでしょ」とマユコが言った瞬間、それに間髪入れず、

「ネコ娘っていうより、キタロウだわね」とヨシエは言った。

ヨシエが帰った後、

「どうして、ヨシエおばさんってああいう風なの?」とマユコが首を傾げた。

「でも、キタロウは主役だからいいわね」とカズコが言うと、

「んー、キタロウは男の子だけど、ネコ娘は一応女の子なんだけどね」とマユコは言った。

 

カズコが、ヨシエの一人息子と話していると

「何話しているの?」とヨシエは気になるらしい。

カズコが興味を持つ本を彼も読んでいて、「こんなことを言ってたわよ」とヨシエに言うと、

「何で、母親のアタシに話さないことをカズちゃんに話すの?」としょげてしまい、もう

ヨシエの息子とはあまり話さないようにしようと、カズコは思った。

 

 息子が年頃になって反抗期が始まると、ヨシエが、度々電話を掛けてくるようになった。

ヨシエは強気で失礼なところはあるが、甘えんぼで気の弱いところもある。

「カズちゃんとは、長い付き合いでしょ! 話くらい聞いてくれてもいいでしょ!?」と、

ヨシエは、見栄っ張りのようでいながら、弱みをさらして泣き言を言う。

 そんな、ヨシエを何とか励まそうと、カズコの友人が障害のある子を育てている話を

始めると、「ウチを、そういう人と同じレベルで話さないで!」とヨシエは、言った。

 その人が、七転八倒しながらも頑張る姿に感銘し尊敬しているカズコは、

「でもね、聞いて『この子が家に来たから、皆がホンモノの家族になれたのよ』って、

『この子のお陰で、夫とも子供とも色んなことに気付かされて、色んな話が出来たの』

『この子は、あたし達の宝物なの』って彼女は言うの」

「そうでも、言わなかったら、やってられないからでしょ!」とヨシエが言うのを聞いて、

ダーメだこりゃ、という気持ちと同時に、大事な友人が侮辱されたような気持ちになった。

 

 何事にも、アリノママを受け止めなければならない時というのがある。

それは、努力することを放棄するということではない。

 どうしようもない現実に向き合わされることがある。

いくら考えても、変わらない事実がそこにはある。

その時、どれだけ覚悟を決めて、慌てず騒がず現実を見て受け止め、それと付き合って

いくかが、人生の勝負だとカズコは思っている。

そのことが伝わらなかったことが、悔しいのと同時に、その手本であるとも思っている

友人に申し訳ないような気持ちになった。

 

 ヨシエちゃんって、ダッコちゃんみたいだなぁ。とカズコは思う。

そして、でももう、ダッコちゃんは、流行らないんじゃないの?と、カズコは思った。