ディスプレー

 

 麻子が雑貨屋を営んでいると、

「いいわねぇ、アタシもこういう店をやりたい」と言ってくる人が多い。

 それを聞いて、見ると聞くとは大違い、傍で見てるほど楽じゃないよ。と麻子は思う。

 

 何事によらず、何事に於いても華やかな部分だけを見て楽しそうだと思い、そこだけを

ちょっと真似することで、簡単だと思ってしまうことは多い。

 麻子の雑貨屋では、長続きする人と間もなく辞める人にハッキリと分かれる。

どういう人が、早々とへこたれるかというと、ヘンな夢を持っている人のような気がする。

「ワタシ、雑貨屋が好きなんです、こういう店で働きたかったんで嬉しいです」など

と言う人は殆どというか、一人も残っていない。

 逆に長続きしている人は、雑貨に対して特別のコダワリも思い入れもなく、といっても

雑貨を楽しいと思ってはいるようだが、雑貨にたいする特別の執着はないようだ。

 雑貨屋で働きたいという人は、自分の好きな商品を使ってディスプレー(飾りつけ)を

したいという望みの強い人が多いように思う。

 しかし現実は、届いたダンボールから商品を出して、数を確認し値段を付ける。

空いたダンボール箱をつぶして運ぶ。布を畳む。ハンガーに掛け直す。小物を並べる。

掃除、在庫の補充、(挙げだしたらきりがない。)

という単純作業に終始することとなる。

 そして、自分が思っていた、望んでいたことと違う!ということになるのだ。

 

雇用者側から言わせてもらうと、

誰かを使うに当たって使いづらいのは、黙ってハイと言えない、取り敢えず一度飲み込む

ことが出来ない人だ。

まだ仕事を覚えてもいないうちから、これはこうした方がいいんじゃないですか?!

このほうがいいですよ!どうしてこうしないのですか?

と言うような人がいるが、一見やる気があるように見えるが、間もなく居場所がなくなる。

 同様のことが学校教育の場でも言えると思うのだが、状況を観察せず考える前に質問

する人間が多い、多すぎる。

自分で考える前に、質問してきたり、分かりもしないうちに意見を言いたがる。

それがいいことだと学校で教えてしまっているんじゃないかと、麻子は思う。

 教師や親も待つことが出来ないし、生徒や子ども達も待つことが出来ない。

 

 余計なお世話かもしれないが、どんなシチュエーションでも同じだと思うので、

自分の希望を叶える、意見を通すコツをアドバイスをさせてもらおう。

何か言いたいこと、やりたいことがあったら、周りの様子を見ることだ。

先ずは周りの様子を見て状況を観察し、コツコツと自分の足場を固める。

そこで、何かしたいと思うのなら、虎視眈々(こしたんたん)と様子を伺いながら

静かに、言われたことを忠実にきいて、そして、心を込めて行うことが先決だ。

仕事を覚えて周りのことが分かって、それでも言いたいことがあったら、それからでも

遅くはない。

というより、それから口に出すのが一番的確で、相手の気持ちを損ねない言い方が

出来る。

さらに何か意見を出すときは、間違っても自分の考えが絶対だなどという断言的な

話し方をしてはならない。

何故なら、そこで大切なのは、自分を誇示することでなくて、物事が改善されることだ

からだ。

 波風を立てないやり方というのは、姑息な大人の処世術のように思われがちだが、自分

の存在を誇示して相手を打ち負かすことは、物事を根本的に是正されるということでは

ない。

 それは相手の恨みを買い協力の手を断ち切ることになってしまうからだ。

何事に置いても大事なことは、誰もやっつけず嫌な気持ちにさせず、みんなが気持ち良く

一致団結して手を組み、協力して、良い方向へ進むということだ。

 そこには勝ち負け、手柄争いは必要ない。

(なーんて言ってるんだけど、私は出来ていませんから、ザンネーン)

 

 ところで、ディスプレーというのは、最初から出来る人と出来ない人、やりたい人と

やりたくない人がいる。

 それぞれに、それぞれの長所があり、欠点がある。

それは、いい悪いでなくて個性、個別の特性といった方がいいのかもしれない。

 ディスプレーしたいという人というのは、意欲があり、自分なりのイメージを持って

いて、センスが良いといわれる人が多い。

 だが、そういう人というのは、片付けや掃除などのコツコツとした地味な働きを嫌がる

傾向がある。

 ディスプレーというのは、遊びのようなものかもしれない。

若しくは、ゲーム。

 ちょっと器用でセンスのある人だと、見よう見真似で、或る程度出来る。

自由に商品を組み合わせ、配置するのは面白い。

 しかし、そこの前に下ごしらえがあることを、まだ知らない時期がある。

事前に足元を固め、下ごしらえをしておかなくてはいけないということを、分かって

いない時期があるのだ。

縫い物でいったら、躾(しつけ)をかけるという作業だ。

それをしないで、どういう目的でディスプレーをするのかということが、まだ分からず

考えず、自分の勝手な思い込みと発想だけで行っていると自爆していくことになる。

勝手な思い込みで始めたディスプレーは自己満足の域から出ることがなく、壁にぶち

当たる、そして自己満足は、それが否定された時に落ち込みとなる。

それを、他人からの否定であれば、その人を否定し悪者にすることで何とか心の

均衡を取れるが、自分の中から発した自己否定となると逃げ場がない。

 そこで、救いであり呪縛となるのが、仕事に対する愛情と思い込み、面白さの虜

(とりこ)になっているかどうかということだ。

 虜になっていれば大丈夫。

仕事に自信が持てない、自分が嫌になったその時、その面白さの虜になってさえなって

さえいれば逃げない、逃げられないからだ。

何でも逃げずに行っていると、そこに根が生える。

 そうなると、自己満足レベルの仕事が、商品やお客様への礼儀を持った仕事になって

いく。

しかし、そこで逃げる人というのは逃げ癖がつく。

一回逃げると、その次にも簡単に逃げてしまうことになる。

 借金を返す力、返す気のない人程、簡単に借りて自分を地獄へ誘うように、ずるずる

と流されていくように。

嫌になって簡単に逃げる人は、もっと嫌になるところへと自分を運ぶことになる。

 そして、根無し草になる。

 

「根無し草にだけは、なってはなんねえじゃ。

どんな所でも、そこで頑張れば、必ず根が生えるんじゃ。」

 

縁は、縁であって、それを良縁にするか悪縁にするかは、そこで自分がどう生きていく

かにかかっているように、与えられた環境の中で、自分の能力を生かし伸ばすには、

自分がそこでどれだけ覚悟を決めて、腰を据えてやっていくかが、勝負となる。

 

 また、私のこじ付けになるが、ディスプレーってのは、その人の生き方が現れる気が

する。

 私が心掛けているのは、品があるが気取らず、カッコ付けず、奇を衒(てら)わず、

面白く、面白いけど化け物にならず、キレイでないけど美しい。美しくないけどキレイ。

本当に美しいキレイなものは、目に見えない。

そして、総てのモノに対して失礼でなく、大切にして可愛がる。

 でも、切り時、捨て時ってのがあって、もうカンベンしてくださいって言ってるモノを

しつこく使うと、コジキになって卑しくなる。

 あー、これは処分の時がきたなと踏んだら、有難うと失礼のない処分を行う。

何モノにも主役と脇役があるが、脇役は名脇役であって必要のないただの捨石的存在に

してはならない。

夢があって、面白くて、楽しい、大胆だけど雑でない。綿密だけど、みみっちくない。

緩やかで暖かい、涼やかでスッキリしている。

 そんなディスプレーを、私は心掛けているんだけどなぁー。

これらは心掛けているって話であって、あーもー、難しいんだよなー。

 

奇を衒う=わざと変わったことや変な真似をして、他人の注意を引きつけようとすること。