易者(えきしゃ)
前回のムキ壁に続いて、ムキの壁の話です。
私がムキになる人のパターンというのがある。
それは、決めつけ、上から目線、自慢、驕(おご)りを感じた時だ。
それを感じることが多いのが、先生と呼ばれている権力を持つ人、母親、易者。
今日は、易者の話に的をしぼってみよう。
<井上ひさし>が、
「他人の人生を変えることの出来る人間は、医者、学者、易者である」と書いていたが、
他人に影響力を持った人が、誰かに助言(アドバイス)なり指導する時、あってはなら
ないのが私情だと私は思っている。
人の弱みにつけこむことは最低の行為だが、弱みを持つ者を食いものにしようとする
者にとって占いは最高の手段じゃないだろうか。
権力なり知識なり、力を持った者は、力と同時に謙虚さ、研究探究の心、客観性、公平
に勤める。という義務を持たされる。
<水野南北>
日本式の占いが始まったのが江戸時代だと聞いていた。
占いの大家と呼ばれる“水野南北”は、素晴らしかった。と聞いたが、何がどう素晴ら
しかったんだろう?と調べてみることにした。
それまでの彼についての私の知識は、三年間髪結いの小僧となって頭の相の研究をし
三年間風呂屋の三助をして身体の相の研究をし、三年間火葬場の隠坊をして死者の骨相
の研究をして観相法を身に付け、偉い人になった。というザックリとしたものだった。
偉い人というと、先ずは反感を持つひねくれ者の私だが、彼の生い立ちを読んでみたら
以外だった。
<南北の生い立ち>
南北は幼くして孤児となる。
辛い育ちを生き延び、十歳の頃から飲酒、喧嘩の口論で生傷が絶えない暮らし。
十八歳の頃酒代欲しさに刃傷沙汰で入牢。
出牢後、巷の易者に「険難の相で、あと一年の寿命」と予言される。
そして、「避難の方法は、出家にあり」と教えられる。
南北は、禅寺を訪れ弟子入りを志願する。
住職は断わるつもりで「一年間、麦と大豆だけの食事を続けてきたら、入門
させよう」と約束する。
命惜しさの一念で続けて、一年後、寺に行く前、件(くだん)の易者に会うと、
「険難の相が消えた。何か大きな功徳を積んだに違いない」と驚嘆。
「そのこと(食事)で、陰徳を積み相までかえたのだ」と言われる。
そこから南北の観相師としての修行が始まった。という。
<南北、結論に辿りつく>
南北は、江戸時代中頃、1760〜1834年、京都に住み、
聖徳太子を教祖として尊び、更に、神道、儒教、仏教を深く研究した。という。
そこに、頭の相、身体の相、骨相の研究があり、実地についても深く研究を積み重ね
百発百中、当たらざること無し。と、高く評価されるようになるが、南北は疑問だった
という。
相は良くても失敗しダメになる者が居る。半面、相は悪くても成功し良くなる者が居る。
更なる研究の末、ある結論にたどり着く。
人、人間の一生の吉凶は、皆その飲食によることに行きついた。
富貴貧賤、寿、窮楽、立身出世、発展のことは、すべて慎みにある。
<南北の相貌>
について自ら書いている。
背は低く、顔貌せせこましく、口は小さく、目は険しく落ち込み、印堂は狭く、眉は薄い
家続は狭く、鼻は低く、顎骨は高く、歯は短く小さい、また、足も小さい。と、貧相で
あり凶相である。と。
<南北の結論>
人間の一生の吉凶は、皆その人の飲食による。
恐るべきは、その飲食であり、慎むべきはその飲食である。
飲食を慎み、腹七分目にせよ。
でも、それは人それぞれ個人で違う。
そして、自分が行い、家族や他人に押し付けるな。
節制は吉だが、ケチは大凶。ケチでなく節約せよ。
青菜類はいくら食べても良い。
食欲がない時は無理に食べるな。
早寝早起きせよ。
<南北の実践>
南北自身が率先し実行し、一生涯少しも米を食べず、唯麦一合五勺だけとし、
酒も大好物だが、これも一合と決めた。
一日2食から3食になったとされる元禄年間に、放蕩無頼の徒から一念発起精進した南北
は観相家として名声を得、やがて神官、僧侶と同等の地位を得た。
<自分が生きる>
以前に書いた占い師の話が見つからないんだけど、やっぱり自分の色んなモノが凶相で
それを変える為に占いの勉強をして、自分の生き方見つけ出した人が居た。
占いに限らず、与えられた宿命はあるが、そこで自分が“どう生きるか”に掛かって
いるんじゃないだろうか。
生きなくちゃならないから生きてる。仕事しない訳にいかないからしている。という
人が居た。
やりたいことが見つからない。という人が居た。
仕事でも、介護でも、子育て、何でも、今、やっていることが、実はやりたいこと
なんだ。と自分に言い聞かせていると、何かに気が付く気がする。
そして、身の回りを整理整頓し、飲食を慎んだら人生が変わって違う何かが見えてくる
んじゃないだろうか。それが、自分が生きるってことかな。
と、水野南北の経歴と書いた物を読みながら思った。
因みに、南北の“相法極意修身録”は、貝原益軒の“養生訓”と並ぶ教えなんだそうな。
貝原はちょっと知ってたけど、南北、あー、知らんかったぁ。