黒い犬(エル)

 

 暮れにハナコが死んで、その悲しみに、「もう、犬は、しばらくは飼わない」と決めた。

二度と飼わないのではない。“しばらく”は、飼わない。と家族に宣言したのだ。

 ところが…、もう察しはついただろう。

それから5ヶ月経ったある日、夫が「あんた、犬、欲しくない?」と言ってきた。

「イーヌゥだぁー(歌舞伎風に)、ハナコが死んでいくらも経っていないのに、ダメだよ」

「何で、もう半年も経つんだからいいじゃないか」

「ナニ言ってんのよ、ハナコはあたしらが殺したようなもんなんだよ。

散歩はさせない。エサもやらないで、ハナコはお腹がすいたままで死んだんだよ。

供養のためにしばらく犬は飼わないって決めたんでしょうが」

「半年経ったら、それはしばらく経ったっていうんじゃないの」

「ダーメダメ、最低一年はダメだね」

「それが、今日行ったお客さんの家に真っ黒い犬が居てさ」

「だぁかぁら」

「それが可愛いんだ、こういうシッポしてて、ピーって振るんだ」

夫は、ボールペンを持ってピ−とシッポみたいに振って見せた。

「ダメだからね!」

不吉な予感がした私は強く言った。

「ねー、一度見て見たくない?

真っ黒でカワウソみたいで、今まで見たことないような犬なんだぞ」

「だから、見て欲しくなっちゃったら困るでしょ!」

「大丈夫だよ、そのお客さん、その犬オレに呉れるって言ってんだ」

「何が大丈夫よ。まだ、犬は飼わないって言ってるでしょうが!」

「いいから、いいから、見るだけ、ね」と、夫は勝手に何かを始める時の顔で外に出て

行った。

そして、車から戻った夫の腕にはブラックタンのミニダックスが居た。

「ナニ、それ!」

「えへへ」と、台所に降ろされた犬は、足が短くなめし皮のように黒く光って驚いた

ようにテーブルの下に潜った。

「どーしたのよ!」

「だから、あんたに見せてやろうと思って」

「見せてやろうったって、返しに行けんの?」

「いや、あんたは見たら欲しくなるから」

 その日、夫が仕事に行った場所は車で1時間以上掛かる所だった。

確信犯だった。車の中には、お客さんが付けてくれたというケージからドックフード

エサの容器やフィラリアの薬までが乗っていた。

 それが、エルとの出会いだった。

 

 その年に勤めを退職した私は、生活のタメに商売に全身全霊を掛けて頑張っていた。

大袈裟な言い方だと思うかもしれないが、本当に全力投球で頑張った。

 頭も身体も使って、心を込めて接客し、縫い物をし、店のディスプレーをした。

仕入れ、販売、チラシの作成。

お金は不自由して苦しかったが、仕事は面白かった。

小学2年と学校に上がらない子が居て、毎日がてんやわんやの所にエルが加わった。

エルは家に来る前は、外に出されていたらしいが室内犬で頭の良い犬だった。

子供も面白いが犬というヤツは、心置きなく楽しめる存在で家の中に犬が居るという

贅沢を初めて楽しむことになった。

犬はいくら撫でさすっても嫌がるどころか、もっと撫でてくれと傍を離れない。

が、忙しくなったら、(シッ)っと態度で示せばササッと傍から離れる。

 エルは、すぐにずっと前からこの家に居たみたいに自然に溶け込んだ、と思っていたが

一年経った頃、初めて私にワガママを言うようになって、あー遠慮してたんだと知る。

私の様子が暇そうだと見ると体当たりで外に出ることを要求し、朝は起きろといって

ボンボン布団に乗ったりするようになった。

 今はクリームのダックスを飼っているが、黒というのはクリームに比べ野生が強い

みたいで運動神経が良く、体臭も強かった。

 ダックスは、今も実際にアナグマだかウサギだかを追い出す狩りの手伝いをする犬だと

聞くが、エルは道路の死骸を引っ張ってきたりミミズや蛙の干物に身体をこすり付けた

りした。

 

 ウチに来る前にエルが居た家は、ドーベルマンを二匹の他に柴犬や猫、鳥などを飼っ

ていて、そのどれもが血統書付だったり珍しい価値のある動物ばかりだという話だった。

 ドーベルマンは東日本のチャンピョンをとって何百万もするということで、エルの母親

も全米チャンピョンの何だかで買えば30万もするということだった。

 1985年当時、そんな高い犬を買う人がいるのか?と、思ったもんだ。

 

 エルは、1999年に死ぬがそれまでのどの犬よりも長く深く私と係わることになった。

 

 エルの悪戯というか、したことは我が家の歴史に伝説のように残っている。

沢山ありすぎて書ききれないが、その一部を紹介する。

 <親子丼事件>

 まだその頃は、私以外に店員が居なかった。

一人で店番をしていたが、売り出しの時は夫も店に立った。

 お昼は交代で入ったが、腹減らしの夫を先に入れて食べさせ、私は後から入った。

もう2時を回っていて腹はペコペコ、テーブルの上には店屋物でとったドンブリがあった。

 でも、ラップが掛かって置いてあるそのドンブリの中は白いご飯だけだった。

親子丼の筈がどうしたんだろう?夫が食べてしまったのか…、それしか考えられない。

ナニよ、モー信じられない!

 ラップを剥がしてあり合わせのものをオカズに昼食を済ますと、店に立つ夫に文句を

言った。

私の言っていることが分からないと夫は怒り出し、喧嘩になったが、

後で分かった。

 高いテーブルでエルは上れないと私は思い込んでいたが、ある時台所に入るとテーブル

の上にエルが居た。

 エッ、という顔で振り返ったエルは、慌てて降りようとして足がドリフトしていた。

その時、分かった。

 親子丼の具だけを食べたのはエルだったのだ。

私は、ラップに小さな穴が開けてあったのに気がつかずに剥がして食べたのだ。

 兎に角エルは食いしん坊で食べ物を見ると人(犬)が変わったようになった。

 

 この続きは、今の色々な用事が一段落してから書くね。

 

<用水路事件>

 

<カレー誘拐事件>

 

<自転車事件>

 

<ミソピー事件>

 

<ネズミホイホイ事件>

 

<固めるテンプル事件>

 

<狂犬病注射事件>