チェ・ゲバラ

 

 チェ・ゲバラの娘さんが、来日して“みのもんた”と対談していた。

スゲェ!あのゲバラの娘だ!

若いじゃないか、と思ったら1956年生まれで私より2つ年下だった。

 

「後期高齢者医療について、あなたはどう考えますか」と“みの”が質問した。

「父は、人の幸せを一番に考える人でした。

医者であったことも(彼が健康でなかったことも)あると思いますが、幸せの基本には

健康があると考えていました。

75歳を過ぎた人は、十分に働き国や人のタメにも生きてきました。

そして、疲れています。

その方々を大事に考え、手助けすることは国や社会の当然の役目だと思います。

後期高齢者に対する医療の制度は、それを考えているでしょうか」と彼女は言った。

“みの”は、彼女と話して日本について非常によく調べ勉強していることに感心した

という。

彼女は、幼少時に父との別れをしたが、その時の彼女はチェ・ゲバラを父だとは知ら

なかったらしい。

しかし、幼い彼女を一人前の人間として対する彼のカッコ良さには、幼いながらも

惚れ惚れしたという。

 医者であった彼の影響もあるかもしれないが、彼女は小児科の医者をしている。

ゲバラは弱い者を守り助ける国、社会でなければならないと言った。

人は幸せにならなければならない。「その基本にあるのは健康。そして、社会」だと。

愛の革命家チェ・ゲバラ。

 

ゲバラは、1928年、アルゼンチンの裕福な家庭に生まれ、両親に目の中に入れても

痛くないほど可愛がられて育ったが、生まれつきの“アレルギー性の喘息”で苦しむ。

しかし、類をみない生まれつきの負けん気は、病気にも挑む。

チアノーゼ(酸欠のために唇、指先が紫になる)になり命が危なくなるほどだったが、

七転八倒してそれ以上我慢したら死ぬという状態になるまで酸素吸入器に手を伸ばさな

かったという。

ゲバラは、自分に挑戦するかのようにサッカー、ラグビー、水泳と激しいスポーツに

熱中する。抜群の集中力で勉強も出来、常の周囲を引っ張るリーダーをやりたがった。

 喘息は大人になっても治らず、爆弾を抱えたまま生きて行くことになる。

それは、一生放浪を続け「命知らず」の異名をとった彼の根本にあったのではないだ

ろうか。

 23歳、医者の大學在学中、医者の友人とバイク旅行に出かけた。

放浪とバイク、革命家でゴールに向かって脇目もふらずに猛進する。そんなイメージの

彼もその時、自分が何をなすべきか分からずイライラともだえ苦しんでいた。

友人のアルベルト・グラナドスと共に出かけた「自分探しの旅」はアルゼンチンから

アンデス山脈を西に越えてチリに入り、太平洋を北上して南米大陸を縦断していく。

 アルベルトの愛車「ポデローサ(強力)11号」中古の原動機付自転車に二人乗りで

出発したイキアタリバッタリの旅は、すぐにバイクがイカレ、ヒッチハイク同様の貧乏

旅行となる。

 ゲバラたちを駆り立てていたのは、象牙の塔の学問、本の中の世界ではない

「生きた人間を見たい」「真摯に打ち込めるものを見つけたい」という、やむにやまれぬ

衝動だった。

 そこでの失恋や羽目を外した出来事と共に成長し、それまでの自分のものの見方が

いかに甘かったかを知る。

 チリでプロレタリアの優しさと強さを知り、ペルーのマチュピチュ遺跡でその文明を

築いた先住民族とそれを踏みにじった侵略、今尚悲しむインディオに会う。

サンパウロでは、ハンセン病患者の島に滞在し、隔離された人々の現実に知見を広げる。

 この旅で、ゲバラは医者になるよりも、人間の尊厳と社会の正義のために身を捧げる

ことが自分の使命だと思いはじめる。

 彼の両親は、階級意識や保守的な価値観を嫌悪し、リベラルな考えを好んだ。

ゲバラは、貧しい人や恵まれない人に横柄にふるまうのは恥ずべきことだと教えられた。

 ゲバラは人間に対する興味から、それに係わる社会や政治に興味を強く持った。

そして正義漢で権力の横暴を憎み、弱者にたいしてシンパシーを抱く彼は、傍観者で

いることは出来ずその中に入っていって当事者になりたいという行動に出る。

ゲバラは「口ばかり」を嫌い、徹底して言行一致を求める「参加したがり」だった。

 

20歳末にキューバの革命家フィデル・カストロと知り合い、共に突き進む。

1959年、キューバの革命に成功。

カストロは沢山の子分を従える「親分」だったが、チェは群れない「一匹狼」だった。

カストロは多くのものを照らす太陽、ゲバラは一人で輝く星。

「祖国」のためでなく、純粋に理想を追い求め、もがき続けた孤独なスター。

 

私は、強いだけでないもがき苦しんでそれでも突き進む彼が好きだ。

迷い、悩み、激烈な行動家でありながら、いや、だからこそ熱意が空回りして失敗する。

強引でありながら、反面純情。思い切りがいいようで案外引きずる。

緻密でありながら、ある面はアバウト。

 ゲバラの写真は、常に読書をしている。野営のキャンプ、船の上、ベッドの中、木の上。

戦闘の最中でも、本好きの彼の傍らには常に3、4冊の本があった。

 ゲバラには「自分に負けてはいけない」「弱い所を見せるな」「みっともないまねを

するな」という強烈な美学があり、そのためには徹底的に自分に鞭を打った。

 彼は言った。

「国民に意思を伝えるためには、国民の一人となって感じなければならない。

国民の欲するもの、要求するもの、感じるものを知らなければならない」

 

チェ・ゲバラという男を表現し、称賛する言葉。

理想を求める、世界で一番カッコイイ男

ゲバラは理想の世界の実現のため、妥協を許さなかった。それゆえの激情と孤独。

彼は考えながら疾駆する孤高の革命家。

チェ・ゲバラ。もっとも魅力的で危険な男。

 

キューバ革命から建国にかけて、ゲバラと行動を共にした者は皆ゲバラを讃えながら

同時に言った。

「チェはすごい奴だ。でも、ついていけない」

ある意味、ゲバラにとって革命より建国の方が難しいことだったのかもしれない。

あくまで理想を求めてやまないゲバラと、生きるためには多少の妥協はやむおえないと

考えるカストロ。

 1965年国際救済会議で、ゲバラのソ連に対する疑問と怒りからの発言が、

カストロを窮地に立たせることになる。

ゲバラは清濁併せ呑むことの出来ない、嘘のつけない、真直ぐにしか生きられない激烈な

革命家としか生きられない人間だった。

 そして、ゲバラは朋友を残してキューバを去る。

「民族解放の唯一の方法は武力闘争だと信じ、その信念に従って生きます。

人は私を冒険家だと呼ぶが、まさに真実を示すためにわが身を投げ出したいと思って

います。おそらく、これがあなたたちに贈る最後の抱擁になるでしょう」という手紙に、

放蕩者で強情な息子の抱擁とキスを家族に送って、コンゴへ旅立ち、その後ボリビアの

革命に身を投じ、そのまま帰らぬ人となる。

 1965年、ボリビア国軍の捕虜となり処刑される。(39歳)

1997年、ゲバラの遺体が見つかる。

 彼を処刑した元ボリビア軍司令官の、良心の呵責と秘密を隠し続ける重圧に耐え切れず

にした告白によってだった。

 ゲバラが最後の瞬間、「早く撃て、それがお前の仕事だろう」と言い放ったという。

それが本当かどうかは分からないが、捕虜だったゲバラに会ったフリアが

「あなたのは奥さんや家族はいないの?」と聞いた時、ゲバラは言った

「妻子はいるが、それより大事なものがある。

それは思想であり、それが私の生き方なのだ」と。

 

1959年に彼が日本に来た時、原爆慰霊塔を突然訪問し、献花して

「日本の人びとはこんなことをされてなぜ黙っているのか」と熱弁を揮ったという。

 

「自分はキリストじゃないし、慈善事業化でもない。

正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架に

はりつけになるよりも、敵を打ち負かそうと思うのだ」と言ったゲバラは、

「何故黙っているんだ、立ち上がれ」と理想に向かい続けた。

 その不器用さが、悲しく美しい。

 

ジョン・レノンが「世界一カッコいい男」と言い、

J=P・サルトルが「二十世紀でもっとも完璧な人間」と言った。

 

 

 6月20日、ある人の書き込みがあった。

「 すごい。すごい人。
 自身の強い理想がもてたから突き進めたのか、自身の性格が突き進めて
いったのか。  それを邪魔するものはなかったのか。 足踏みする事は
なかったのか。  勿論あったんだろうけど。
 そう考えると、やっぱりすごい。強い。
 でも、周りから強い強いと言われる人ほど、本当は弱い気がする。
ゲバラはどうだったんだろう???」

 

 それに答えて、

「私も興味があるのは、喘息の発作で死ぬほどの苦しみを味わいながらも

戦い続けた彼の気持ちです。
 攻撃的な程の愛を抱え、人の悲しみや苦しみ怒りを自分のモノとして

当事者であろうとした彼の気持ち。
 矛盾に満ちた、矛盾こそが彼の本当の気持ちだったんじゃないだろうか。
ここで容姿については書きたくなくて避けたんだけど、やっぱり無類のいい男

だったゲバラ。それは、形だけのことではない。
銃殺されて村に遺体が運ばれた時、どんな凶悪なヤツだろう顔をみてやろ

うと村人が集まってきた。
 しかし、その姿に遺体に手を合わせ始めたという。
キリストの姿に重なるものがあったという。
 今、「源泉の思想」ってやつを読んでいる。
民俗学の先端の人たちの対談形式になっているそれに、
「神を残忍な目に合わせる風習が、どこの国にもある」とあった。
ヨッシーというゲバラを知らない友人に、私もよく知っているワケじゃ

ないのにサワリだけでもとコレを書いた。
 でも、「教科書みたいで面白くない」と言われてしまった。
そして、カストロとの出合いや葛藤を書いて欲しいと、ネットで調べて

言い出した。でも、そこまで書くのは大変なんだよ。
 ゲバラは、苦しむ姿を人に見せなかったという。
喘息で苦しみのたうちまわった翌日も何事もなかったかのように皆の前に

現れたという。
これを言ったら誰かが困ると分かっていても、自分の想いを言わずには

いられなかったゲバラ。

群れることを嫌い、最後まで孤高の人生を歩んだゲバラ。

 ゲバラの気持ちってどうだったんだろうと考えると胸が震える。