ゴジラVS核

 

 台風11号が来ている。

涼しくなって、よし今日はカキモノに集中出来るぞ。と山小屋に入った。

 持ちあげる形の窓から風が入り、雨風が強くなったり弱くなったりしている。

ザー!という音に外を見れば、浮世絵の夕立さながらの横なぐりの雨。

 かと思うと突然陽が射してきたりする。

って、おいおい、感心して見ている場合じゃねえべ。

 我ながら、何だか偶然の一致が多すぎると何かが起きる度に思いながら生きてきた。

それは、答えが先だったのか、自分がその答えに合わせてきたのか。分からない。

 

 1954年11月28日に私は生まれた。

2週間近く早く生まれた。と母は言う。

 娘は1970年11月25日に予定日より2週間早く生まれた。

娘が私の腹に入ったのは、3月18日だった。

 そして、生まれたのが予定日より2週間早くて11月25日。

2週間近く早く生まれたという私も、若しかして3月18日に腹に入ったのではないだ

ろうか。

 

 1954年3月1日、ビキニ環礁での水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆する。

その時、第五福竜丸だけじゃなく何隻も沢山の漁船が被爆していた。

その年、その水爆実験によって3月18日に目を覚ましたという“ゴジラ”の映画が

作られる。

映画ゴジラ誕生のその日、私は母の腹に入ったのか。

 

 何時頃気が付いたのか、気が付いた時には3月と8月に調子が悪くなっていた。

小学生の頃に調子が悪かったのを思い出すと、戦争の話を聞いたせいだったのかと思う。

 鬱体質で、木の芽どきの3月に心の調子がおかしくなるのか、夏の暑さと疲れで体調と

心が落ち込むのか、それともやっぱり戦争が関係しているのだろうか。

 3月10日の東京大空襲の頃になると何かがアウトになる。

2001年の3月、やっぱりそれがやって来ていた。

 3月10日の東京大空襲のせいだ。と私は考えていた。

しかし、家の中を移動していくパチっという音、家の真北にある風呂の外にたたずむ何か。

 それは子供の頃からお馴染のモノであったが、それまでで一番強烈だった。

 

 まぁ、その当時に起きた事を常識的に謎解きをするならば、47歳になる年の更年期と

あまりの忙しさからきた疲れによって起きた異常だろうか。

当時、私の父と夫の父が手術し、そこに母の通院がありそこに付き添った。

東京で別の場所に住む2人の娘の所に通い世話をする。

一人の娘の家に行くだけで2時間近く掛かり、もう一人の娘の家に行くに1時間半掛か

った。

 家の掃除をし洗濯をする。

買いだしに行って冷蔵庫と貯蔵庫を一杯にして、仕入れに行く。

 帰宅すると休まず仕事に入る。

店を空けて出来なかった分の仕事は夜に、夜中の2時3時までするのは日常茶飯事だった。

友人の1人が脳腫瘍の手術を受けた。不安にかられた彼女からの電話で病院へ行く。

別の友人は食道がんで、3つ年上だが弟みたいなヤツで、病院のモノは食えないと言う。

生臭いモノが食べたいなどと抜かし、魚のチアイを焼いて病院に持って行ったりして

いた。

 そこに長く付き合っている聾唖(ろうあ)の夫婦の、奥さんの方が結核の疑い引っ掛か

り病院で再検査することになったが、ボランティアの手話の通訳の人が逃げてしまい困

っていると言って来た。(私の下手な手話でも彼らにとっては頼りだった)

イッパイイッパイの状態だったが、何とかなるだろうと一度近くの病院に付き添って

行ってもう一度大きな病院に行くことになっていた。

私も疲れでイッパイイッパイの状態だったが、彼らの真直ぐな目に答えないという

選択肢は存在しなかった。結核がうつったらどうしようという心配はあった。

心配症な私は、何時でも最悪な場合と自分が出来る最上の事を考え行動を決める。

やるだけやって死ぬなら本望だ。という思いで今までやって来ている。

その時に出来る限りのことをやっているのだから、もう一度そこに立ったとしても私は

同じことをするだろう。

 分からなくて間違ったことをしたとしても、それが、その時の自分に与えられた最上

無比のことだから。

 

 自分では気付かなかったが、疲れきっていたんだろう。

父の病院(東京)の付き添いをしていて風邪を貰ったらしく、軽い咳が出始めていた。

 まぁ、はっきり言ってその頃には体重が40キロを割る勢いで、咳をする力もなくなっ

ていた。

 

話は逸れたが、ここまで自分を追いこんでいたんだから、おかしくなっても不思議はな

い。という見解が成り立つのだが、何故それが何時も3月に重なるのか。

 そして、あの2001年の3月18日に向かって(本当にそこに居るならドアが開く

筈だ)と思うと風呂のドアが開いた。

 

 2001年3月10日頃、あー、やっぱり東京大空襲の絶望と恐怖、悲しみ怒りが

お彼岸を近くしてやって来ているんだ。と思っていた。

 その1週間後、3月18日、結界が壊れ私は身体から抜け出した。

今、その時の状態を思い出そうとすると頭が痺れる。

 その時のことは、スイッチ・オン、文芸社、で軽く書いているので、読みたかったら

どーぞ。

 そこでは書かなかった、というか元の原稿は本にした3倍以上あったが、本を出した

2009年3月18日にはまだ世の中に公には出せなかったkとがある。

 その時のメッセージが、(昔っから、何かが知らせてくる)

『結界が壊れた。今までとは違う世界になる。もう、始まってしまった。目を覚ませ。』

 そのイメージが、昔観た映画の一場面のように百鬼が夜行を始めた。パンドラの箱から

もう戻すことのできない破局への種が飛び出してしまった。

頭の中にあるピアノ線がキリキリと引っ張られていく、ヒュンヒュンとあまりの早さ

ゆえに音もなく加速していく何か。

 学校に上がる前からだった。

私は眠りに着くというのか、眠りに落ちる直前になる感覚があった。

 ゆりかごみたいな不安定な揺ら揺らしたモノに乗っている。

それはユックリ揺れて動き出し、やがて回り出す。

 それは回り始めたら止まらない、それはドンドン加速しその遠心力によってその中心は

びくとも動かず、同時に起きる引く力と重力で押しつぶされそうな、潰しようのない動か

ざるモノになる。

それは、動かないモノでありながら超高速で音のない唸りをあげ、動かず進む。

それと同時になるのが、自分の体温と全く同じ所にあって、そこに自分が居るという感覚。

 泥のように柔らかい中に居て自分の存在を分からず居るのだが、その表面が乾いてコツ

ンと当たることで初めて自分の存在に気付く。

 そしてまた泥の中に沈み周りと自分の境がなくなる。

その時に頑張って指の1本でも動かすことが出来ると、暖かい布団の中にある自分の指に

戻ることが出来る。

 これは面白い感覚で、何時頃までか(小学高学年かな)眠りに着く時にあった。

って、話が違う方向へ行ってると思うでしょ。

 違うんだよなぁ、これが、その唸りを上げて回り出してドンドン加速していく際限の

ないモノのイメージが、2011年の3月11日の原発人災による核の暴走そのものだ

ったんだ。

 それをこじつけだって言う人は必ず居ると思う。

自分だってそんな事があるのか。って思っているんだから。

 2011年の3月が近くなった頃、新しい店を手に入れようとしていた。

でも、それはお彼岸が過ぎてからにしようと思った。

 飾っていた小さなステンレスの自転車が落ちて真っ二つになっているのを見た時、店は

先には進まない。と思ったけど、やっぱ、そうなったね。

 体調が、気持ちが絶不調になっていた。

誰かれ構わず原発を止めないと大変なことになると話し始め、気持ちをぶつけても大丈夫

とふんでいる雅美などは、「何で分からねぇんだ! 今に大変なことになるからな!」と

思わず怒鳴りつけていた。

 その3日後だった、3,11の地震が起きたのは。

その何日か後、福島原発がダメだ。という情報が入る。

 ヒェー!と、腹の底から震撼した。

あの時、時を同じくした10年前の3月の、あの体験がなかったら耐えられなかったかもしれない。

 正直、ハッキリ言おう。

福島原発が、と聞いた瞬間、あ〜あ、ついに来たか。と思った。

 

 何で分からないのか!?と思う。

思い続けてきた。

 簡単なことなのに。

自分の都合と欲で生きた時、人間は破滅する。

 

 国策で推し進められ、日本を高度経済成長に導いた水俣の工場。は、地元の人達を見殺

しにし、海を蔑(ないがしろ)にしてきた“水俣の人災、公害”だ。

 

 1954年、3月1日のビキニ環礁から水爆実験は続く。

3月27日、ロメオ

4月26日、ユニオン

5月5日、ヤンキー

5月14日、ネクター

 アメリカで調査されていた空中線量が高まる中、日本の漁船98隻が操業を続けた。

アメリカからは元より日本からもなかったことにされたそこでの被爆。

 今年6月60年目にして初めてDNA鑑定が、ビキニの1300K以内8隻の漁船員

であった18人を調べた。

 18人中13人が明らかに高い放射線量を示し、DNAの異常があった。

 

被爆したその測定は、船とマグロは記録があったが、人間はなかった。

なかったことにされてきた。

 なぜ明らかにしてこなかったのか。

原子力を動かしたいアメリカとそれに迎合する日本にとって、不都合な真実だったのだ。

 そこでアイゼンハワー大統領は、ОBCに隠ぺい工作として日本の放射能パニックを

納めるように指示を出す。

 翌年、アメリカは原子力平和利用の博覧会を日本全国11か所で開催する。

そこには延べ300万人が訪れることになった。

 その翌年、ОBCから大統領への報告書には「一連の原子力工作によって、日本人の

反核感情は殆ど取り除かれた」とある。

 

 そして、日本にないとされていた人間の被ばく検査が、厚生省にあったことが60年

にして分かる。

 高い線量。それはなかったことにされ、ロクな保障もなく事実を知らされないことに

よって事故管理をすることもなかった。

 「少しでも分かっていたら自分で気を付けることが出来たのに」と40歳で弟分を亡

くした人が言っていた。

 当時のアメリカの聞きとり調査(14隻の漁船員)には、歯ぐきの出血、血便がの文字

があり放射能が検出されていた。

 しかし、その後も水爆実験は続けられ、日本はそれを漁船に知らせることはせず、

98隻がその海域で操業を続けるのだ。

 

 原発の事件(事故じゃない人災、事件)は起こるべきして起きた。

一部の人間(政府、企業)の欲によって勝手に始まった国策としての原発推進。

国民への説明はなかった。説明がないんだから了解を得るなんてことはあり得なかった。

国民は何がどういうことが起きているのか分からないままに、それは進んで行った。

事実(使用済み燃料は溜まる一方で始末は出来ない、地震でも津波でも火山噴火、台風、

竜巻、テロ、人の操作ミス、一度何か起きたらもう非常事態で手が付けられない、人の手

では制御不可能である)を説明せず、安全だというウソをつきとおしてきた。

と同時にその時々に起きた数え切れない失敗をもみ消し、国策として誤魔化し続けて

きた。

 国の為だと言って子供のような(知識がない、疑わない)国民を戦争にかりだし、人

殺してきた国(日本)は、人を人間と見ていないのではないだろうか?

 

 私は愛国心という言葉が戦争を起こし、いわれなき犠牲を強いるんじゃないかと思って

きた。

自分の国を愛するという思いは、自分の自分の国だけを守ろうとする行為になる。

愛しているという思いは、その愛するモノだけを守ろうとすることになる。

それは、愛するモノを迫害し傷つけるモノとの戦いの始まりになる。

 

愛が執着と差別、戦いの原点だという。

そこで“愛を”と言うなら、宇宙愛。イエスの言われた「自分を愛し、自分を愛するのと

同じように家族を愛し、隣人を愛し知ってる人を知らない人を、敵さえも愛しなさい」だ。

そうしたら地球に存在するモノを分け隔てなく見ることが出来る。

 

 戦う敵は、他にない。己の心の中にある。

中東での戦いをジハード(聖戦)と言うらしい。

 ジハードには、小ジハードと大ジハードの二つがあって、小ジハードは愛する者を守る

為の戦いで、大ジハードは自らの中にある弱い心(そこには怠けや逃げと同時に征服欲や

支配欲などの欲望)との戦いである。と聞いたことがある。

 何千年も前から戦い続け、他と戦うことを止められない、止めない彼らは、大ジハード

の本当の意味を知らないのだろうか。

なーんて言うと、まるで自分は達観しているみたいだけど。

戦うべきモノは他所にはなくて、自分の中にあるということをチョビット自覚してる。

かな。

 

 正しくあることは難しく、それが出来ているかどうかは分からない。

でも、模索しながら正しくあろうと生きることは出来る。

 そこで、模索することと、“正しくあろうとすること”そして、常にそれが“本当に正し

いかどうか分からない“という思いを心にとめておくことが大事なことのような気がする。

 

 ありゃりゃ、物凄い雨風になってきた。

ゴジラが怒っているのか。

 バケツをひっくり返したみたいな雨。ちゅうけど、すげー。

 

 核兵器廃絶を語る人は多いが、核から手を引かなければならない所まで考えが至って

ない人はまだまだ多い。

 

 核兵器じゃなくて、核を廃絶。

でもって、これから、動かしてしまったモノのお守りをしていくしかない。

 大丈夫、7万年ほどしたら落ち着くから。

核に有効利用はない。(少なくとも今は)

核は、何かあったら「止める、冷やす、閉じ込める」が原則だっちゅうけど、

何かが起きなくても、「止められない、冷やせない、閉じ込められない」んだよなぁ。

 

   夕方になって日本酒、始めちゃった。

            まったくねぇ〜。