歯ブラシ

 

「聞いていいですか?」と話しかけてきたのは、一人息子を溺愛している女性。

 彼女は、旦那とはそりが合わず旦那の言うこと為すこと腹が立つと常々言っていた。

 

「あたしぃ、子供の頃から歯ブラシが好きだったんですけどぉ、最近また大好きになっ

ちゃって、こうやって見たらすぐ買っちゃうんですよね」

 その人は、ちょっと高い響く声で少し舌っ足らずに話す。

 

「これって、何なんでしょうね?」

「はぁ」彼女は、次々と疑問形で聞いているみたいにしながら、返事は待たない.

「それに息子がぁ、やっぱり歯ブラシが好きみたいで、これって血ですか?

私が買って帰ると勝手に使って

『これいいでしょう』なんていうんですよ。あたしが買ってきたのにぃ」

「でも、それがあなた、嬉しいんでしょ」

「えへ、そうなんですよぉ。でも、それに対して旦那がヤキモチ焼いて困るんですよ」

「それ、ヤキモチじゃないと私は思うな」

「じゃ、何なんですか?」

「あなたの態度が気持ち悪いんじゃないかな」

「何が気持ち悪いんですか?」

「人によって態度を変えるあなたが、息子にベタベタしてるあなたが、旦那は気持ち

悪いし、悲しいんじゃないかな」

「そうなんですか?」

「自分がやってること、一回振り返ってみ、息子にはうるさいくらいに何でもして

やって“あげて”関心持って聞きまくって、何時でも息子のことばっかり考えてて」

「あたし、そんなに息子のこと考えてますか?」

「考えてない?

何時でも、何見ても、二言目には『息子が』って言ってるよ」

「誰もそうじゃないんですか?」

「まぁ、そこにその話題があったり聞かれればするけど、私、孫の話したことある?」

「ないです」

「こだわりの趣味があるんだけど、したことある」

「ないです」

「好きなことや好きなモノがあるのはすてきなことだと思うけど、そこに囚われていると

自分の人生じゃなくなっちゃう気がするし、私は、それって自由じゃない気がする」

 

 彼女は息子の話と共に必ず夫の話をする。

そして、親との確執、死への恐怖、彼女の脳裏に次々と現れる感情をコントロールする

ことなく取りとめなく話し続ける。

 囚われは、愛だけでなく怒りや憎悪も同じで心に巣くって離れない.

 

 その歯ブラシの話の前には、息子がスポーツをして“くれて”いることが嬉しくて、

その息子が居てくれるお蔭で息子を通して友達になって“くれた”人が居ることが突然

嬉しくなって朝から涙が止まらなくなって号泣し、その友達たちに「ありがとうね」の

メールを送ったという話をしていた。

 

 息子は彼女の“為”にスポーツして“くれてる”んじゃなくて、スポーツをやりたい

からやってるだけなんじゃないのか。

その友達は友達になってくれたんじゃなくて友達になった。で、いいんじゃないか。

と、思いながら私はその話を聞いていた。

 

「息子にはそういう過保護、過剰反応の態度なのに、夫に対しては、無関心無反応、

話しかけられてもロクな返事もしない」

「あら、ヤダー、奥さんウチに来て見てたんですかぁー」

「夫に対して失礼だとは思わない?」

「だって、話は長いし面白くないし、第一可愛くない男なんですよ」

「ふーん、あなたは自分にとって都合の悪い、この都合には好き嫌いが大きいんだけど、

自分の得にならない好きでない人には差別をして、平気なんだね」

「差別だなんて、だって、可愛くないんですもの」

「ふーん、自分の感情に乗っ取られて行動していて、それでいいんだね。今のあなたは。

あたしが思うに、自分が息子だったらそんなあなたを見ていて、どう思うか、どう感じ

るかな」

「きっと、イヤだと思います」

「あなたが夫だったら、あなたがしている態度言動を受けた時、どう思い、どう感じる

だろう」

「自分がされたら、悲しい」

「そう。

良かったね。

これから自分がどうするかは、自分で決めて行動出来るよ。

自分がしていることが引っ掛かっていたから、今日、あなたは話したんじゃないかな」

「そう、いっつも夫のことが引っ掛かっていて、息子はこんなに可愛いのに何で夫は

こんなに嫌なんだろうと思っていたんですけど、夫じゃなくて自分のやっていること

が嫌いで引っ掛かっていたんですね」

「だと、私は思うけど、本当の所は分かんない。

あなたがそうだと思うんならそうなんだろうし、そこでこれからどうしていくかは、

あなた次第、自由だよねー」

 

 

 自分の感情に手綱を付け、コントロールする(出来る)のは、自分

      よかった。と、私は思った。

 

 

 <追加>

これを読んだ塚石が、

「何だか、話があっさりしてる気がする。改心するのが早過ぎるきがする」と言った。

 恐るべし塚石。

 

 やっぱりもう一歩踏み込んで書かないと。

 

 実は、彼女とは名前も知らずに何年か前から色んな話をしてきた。

彼女は両親を不慮の死で亡くしたパニックから情緒が不安定になった過去がある。

それは今も彼女の中にあって、自分は愛されてなかった捨てられたという想いが、

夫への過剰な期待となっている気がする。

 両親がそうなるにあったって、自分に何の相談もなかったことの無念さは今でも突然

やってきて、彼女の気持ちを揺さぶりオカシクなってしまうのだという。

 何故そこまでの話をすることになったのかというと、私の中にも親(母)に愛されて

いない。というより嫌われていた。という想いが根底にあったからだと思う。

 私は、その人の都合に会わないことによる差別、排除に耐えきれない想いになる。

次郎物語、ニンジン、氷点、橋のない川、

 氷点なんぞは、我が子を殺した殺人者の子が養女として育てていたことが分かって

苦しむ母親と子供の話で、小説の話だけでなく夫の愛人の子を育てることになった人や

再婚して連れ子の存在に気持ちを乱し、どうしようもない状態になっているのを見聞き

してきた。

 人のコントロール出来なくなった、制御不可能の感情ほど怖ろしいものはない。

それは、される方は勿論だが、そうなっている本人こそが地獄に居る。

 

 感情は、自らがその手綱を握りコントロールしようとすることで、初めて人間として

の人生が始まるんじゃないかと私は思っている。

 私は彼女に共感を覚えながら、同情することはしないできた。

彼女は亡くなった両親の年を超えることが1つのテーマなのだという。

 そして、「周りの全ての人に感謝して生きて行きたいのよ」と言う。

彼女の自分が排除された無念の想いが、一緒に暮らす夫への排除になっている気がする。

 それは、彼女の甘えで、それを乗り越えることが、彼女が次の彼女になる1歩となる。

そんな気がする。

 

 

 辛い時、人は立ち止まる。

     止まって考える、振り返り観る、人の話に耳を傾ける。

     止まったことで、初めて観えることがある、初めて心に届くことがある。

     考えて、悩んで、出した答えで少し始める。

 止まって、少しで、歩く、になる。

     止まって、一つ始める。

 止まって、一つで、正しい、になる。

     辛いことを乗り越えて、その一つが足される。

 辛いに一つで、幸せになる。

 

           らしいぜ。