母と子(前編)

 人は必ず、母と子のイズレカに属す。或いは両方に属す。

ここに父というのも存在するが、昨日は母の日だったということで、母と子について

っていうか、みんなこんな母親が欲しいんじゃないだろうか、という話をしまーす。

 なーんちって始まりました、今日のトークでーす。

昨日の“雨降り”の正しい歌詞、アリガトね。

ネットで調べたんだけど、分からなくて困ってたんですよぉ。

 ホント、有り難いこってす。

 

 ねー、何気なく歌ってる“雨降り”だけど、その歌を聴くだけで気分が悪くなる人も

居るんだってことを、知るだけでいいと私は思うんだ。

 以前に、自分の子が親孝行でって、嬉しそうに自慢してた人が居たんだけど、それを聞

いていた人が、突然泣き出したの。

 その泣き出した人はいろいろあって、親に迷惑を掛けてきた人だったのよ。

まあ、自業自得って言っちゃたら、それまでの話なんだけど、その人なりに頑張ってきた

そこまでの人生だと思うんだよ。

 それで、何が言いたいかってっていうと、自分の価値観ってのはみんな同じではないっ

てこと。

 常識ってヤツも、時代や国、年齢、性別によって全く変わるしね。

あの歌の母親だったとして、自分の子が傘を貸したとき「うちの子って優しい子なのよー」

って、手放しでわが子を誉める母親にはなりたくないなぁ。と思う、私のような人もいる

かな?

 

 私は「手放しのノロケ話」「作られた美談」「自己満足の自慢話」が嫌い。

 

道徳の本に「女学校の同窓会」ってのがあってね。

 その話は、女学校の同窓会があるわけ、昔の話で女学校を出た、つったらいいとこの

お嬢さんだけで、そこの同窓会は一流ホテルで行われた。

 みんな大臣代議士、企業のトップ、学者なんかの奥さんになってた。

その中に同窓会に出るかどうか迷って、でもみんなに会いたくてそこに来た人が居た。

 着ている着物も履物バックもみすぼらしい、でも、誰もそんなことに触れなかった。

そして、会食が始まった。食事が進みフィンガーボールが出てきた時、その人がそのボー

ルの水を飲んだ。そういう食事はしたことがなかったんだね。

 それを見て、みんなハッとなった。

そこで、お偉いさんの奥さんが、フィンガーボールの水を飲む。

その他の人も、次々にボールの水を飲んだって話なんだけど、どう?

 

 先ずは、貧しかろうがみすぼらしかろうが、自分を恥じるな!と思った。

旦那が、何であろうが、自分が選び自分と縁を結んだ人を、自分の持ち物みたいにケナシ

たり恥ずかしがるってのは、失礼だろうが!

 衣服や持ち物、貧乏を恥じるってことが、恥ずかしいことなんじゃねえの?

そんでもって、“私なんかが行く所ではない”って思うところがあるんだけど、

私は、“私なんか”って言葉が嫌いだ。

 自分を否定することが謙虚だと勘違いしてんじゃないかい?と思う。

着物やバックのことに触れないでくれた。って?そんなの、当たり前のコンコンチキだ。

 私は、その時にはよるが、女たちが、衣類や容姿を誉めあうことが大嫌いだ。

最近の人はブランドを誉めたりするが、人の持ち物や容姿についてジロジロ見て評価する

こと程、卑しいみっともないことはない気がする。

 その人がフィンガーボールの水を飲むと、そこのリーダー格の人が、さっと飲んで見せ

る。

 そこも、何だか嫌だった。

何でかなー、と考えた。

 自分が、その貧しい人だったら、そんな真似はして欲しくはないな。

じゃ、どうして欲しいか。

「あ、それ、手洗うヤツ」って、軽く言って欲しい。

変にヒソヒソ声だったり、大きな声で笑いながらじゃなくて、普通に。

でも、その人は、飲んで“あげる”ことで、恥をかかせないように“したかった”んだ

ね。

私は、いらないけど、それで助かる人もいるんだろうね。

その道徳の本の中の声なき声ってのが、「やってくださったんです」

「やらせていただきました」「ふれないでくださいました」

「分からない振りをしてくださった」でもって「後で分かって泣きました」ってのが、

悔しくて泣いたのかと思ったら、有り難いって泣いてるんだよねぇ。

 何だか、しっかりしろ!って思う私は、恩知らずなんでしょかねぇ。

って、誰にも同情して欲しくないし、哀れんでもらう筋合いもないと思うんですけど。

 

 次、「手放しのノロケ」

ウチの人ったらぁ。〜してくれるの。〜買ってきてくれたの。〜やってくれるのよ。

旦那に限らず、親、兄弟、子供や友だちなどが、どれだけ自分を好いていて色々気に掛け

て“くれて”、何かをやって“くれる”とか。言って“くれる”って話が嫌い。

「〜が、〜と言ってくれました」は「〜が、〜と言いました」でいいんじゃないかと思う。

くれるって言えば感謝してるような気になってるんじゃないやろか、と思うんよぉ。

「くれる、くれた」という言葉に私は、自分中心に世界が廻っているという不遜を感じる。

その人はやりたいから、やっただけなのに、自分のタメにやってくれたと思うんじゃねえ

よ。って思っちゃうんだなぁー、ボクは。

 “くれる”とセットなのが“あげた”だね。

「言ってあげたの」「やってあげたの」って言う人って、どーも、ダメ。

「やらせていただいた」も、ダンメー。

ある人が、

「うちの子がぁ、お母さん休んでて、って言ってくれたのぉ。うちの子って優しいのよ」

と、言っていたが、その子は、手伝いも手助もしなかったらしい。

 私が思うに、その子は母親の機嫌が悪いのが一番の問題で、母親の心配は二の次だった

んじゃないかと思うんだ。

「休んでて」って言う前に手助けしろよ!ってカンジィー?

 

 でも、こういう話の総て全部が、嫌なわけではない。

じゃ、どういう話が嫌で、どういう話がそれ程嫌でないか?と考えた。

 

口先ばっかりの優しさごっこは気持ちわりー。

 じゃ、同じ“くれた”でもそれ程嫌じゃないヤツは。

一度汚れを乗り越えてから分かった、有り難さによって感じた“くれた”かな?

 自分にとって都合がいいもんだから、その表面だけで喜んでいるのを感謝だと思ってい

る“くれた”じゃなくて、「あー」って感じの「あー、そうだったのかぁ」っていう感じ。

分かるかなぁ?その“くれた”は嫌いじゃないっていうより、好き。

 

 あと、最近のテレビのコメントが、気に障ってならねぇ。

「さあ、あの珍しい蝶々は、私たちの前に姿を現してくれるのでしょうか!」ってえけど

オメーラのために姿を現すんじゃねえから、蝶々の都合でたまたま出てくるだけだから。

それを言うなら「私たちは、その姿を見ることが出来るでしょうか、

蝶々は姿を現すでしょうか」じゃねえの?

「あー、現れてくれましたぁ、ようやくその姿を見せてくれましたー」って言うな!

「あー、現れました。その姿を見ることが出来ました」だろ。

 

 料理番組では、「これをよーく炒めて“あげて”ください」

「水をきって“あげて”ください」なんて、“あげて”を連発している。

“あげて”ちゅうと、言葉が柔らかくなると思ってるのかなぁ?

 ワッシは、“あげる”っていうのが、上からモノを言ってる気がしてならねえんだけんど。

ワシは、誰かが「やってあげる」って言ってくると「いや、結構」って言いたくなる。

 へっへ、そう“へそ曲がり”なんですよ。

あっ、知ってた? あー知ってた。 こりゃまった、失礼。

 

 何でもかんでも、お涙頂戴にするのも、ゲッっとなっちゃう。

毅然としてろよ!しゃんとしろ!メソメソするな!しっかりしろ!って、その人にじゃな

くて自分に、私は何時も言い聞かせている。

 

 私の生きるモットーはカッコイイことだ。

じゃ、私にとってカッコ悪いってのは何か、の定義を話そう。

@     ウソを付くこと。

A     見栄を張ること。

B     カッコつけること。

C     人によって態度を変えること。

D     人をジロジロ見ること。

E     形やラベルで物事を見切ること。知ったつもりになること。

F     威張ること。

G     言い訳すること。

H     毅然としていないこと。

I     みじめったらしい。

J     未練がましい。

K     周りが見えない。

L     自己中心。

M     知ったかぶりをして、物事を見切り、人を評価して自分は動かない。

 

じゃ、私がカッコいいと思うこと。

@     ありのまま。

A     正直。

B     媚びない。

C     潔(いさぎよ)い。

D     毅然としている。

E     格好は悪くても、一所懸命。格好を気にしない。

F     自分の信じた道を覚悟を持って歩く。

G     自分の考えは持つが、理屈じゃなくて実行。

H     何時でも散る覚悟を持って望む。

I     総てに敬意を持つ。

きゃー、カッコエエ!

 

みんな、こんなカッコイイ母親が欲しいんじゃないか?

 と、いうことで次回は、母親という役を持った一人の人間を通しての、一つの話を、

してみたいと思います。

 乞うご期待。