破局への構造(別名、幸せへの道)

 

 昨年3月地震、津波、フクシマ原発人災事故が起き、それまで書けなかった、書かない

できたことを外に出す。と固く誓った。

 あんなに固く誓ったのに、何処まで書いていいか考えあぐねて、書いては出さず、書い

ては出せず、2001年が終わった。

             

 出せなかったものを、今年は出す。(前振りが長いねぇ)

 

 原発はスゴイと思う。

何がスゴイかって。

 人類がダメになる破局への構造で出来ている、破局への見本市だ。

そこに救いはない。

救いがあるとしたら、そこに見える人間の傲慢、慢心、狎れあい、自堕落、排除、支配、

権力に対する媚へつらい、誤魔化し、もみ消し、ねつ造、といった構造を明らかにして、

もう二度とその道を歩まない戒めとすることだ。

 失敗は、それを負の遺産として残し研究し二度と起こさない構造を作りあげていく時

のみ、それがあったことの意味が見えてくる。

 

 かつて日本に戦争があった。

それが始まるきっかけは、「日本を世界の一等国にしなければならない」という言葉だった。

我が子である国民も大事に出来ない国が行ったのは、台湾の統治と教育から始まり、

アジア近隣への侵略だった。

 最初の戦争で勝利し好景気に沸いて進んだ太平洋戦争、マスコミも一緒になって日本中

を洗脳し、騙し、破滅へと一直線に向かった。

 終戦間際、莫大な数の死者を出す。

1945年

東京大空襲、3月10日、10万人以上死亡。

ヒロシマ原爆、8月6日8時15分、人口35万人の14万人が死亡。リトルボーイ

ナガサキ原爆、8月9日11時2分、人口24万人の14万9千人死亡。フットマン

沖縄戦678月アメリカ兵1万2千人日本兵9万4千人沖縄住民9万4千人の約20万人死亡。

 沖縄は戦争が終わっても終戦が知らされず、戦争は終わっていたのにスパイ容疑を掛け

られた民間人が日本兵に殺された。

 その時、生きた人にも死んだ人にも、すべての人に暮らしがありそれぞれの想いがあっ

た筈だ。

 それを戦争は踏みにじる。

 

 私は、原発に、日本が戦争に向かって突き進んで行った時と同じ構造を見る。

白洲次郎が戦後間もなく原発を日本に持ち込もうとした時、同じことを言っている。

「日本は世界の1等国にならなければならない」

 当時の側近が語る。

「彼は自分がこうやれと言ったらそれが出来ると思い込んでいた。

原子力や核の知識はなく、ただ文明が発達していると思い込んでいたアメリカと肩を並べ

たくていた。

でも、知識がないからこそ恐さを感じることなくごり押しで進める事が出来たんじゃない

だろうか」

 

中国で起きた列車脱線事故、そして穴掘り埋め事件。

経験が浅いのに自国で列車を作れと命令し、走って間もなく脱線事故を起こす。

 事故後、その中に人が乗っているかもしれない列車を、穴を掘って埋めてしまう。

 

列車の何処に問題があったかを調べて今後に繋げることよりも、

まだ列車の中に居るかも分からない人を救出することよりも、

国の技術が未熟であることを知られることの方が重大だったのか。

 その列車の中には、まだ乗っていたことが分かって子供が救出された。

 

 日本も全く同じ構造だ。

原発に不利なことは報道しないマスコミ。

地震による津波でフクシマ原発の電源が消失した時、アメリカとフランスの専門家が

手助けをしたいと駆け付けてくれた。

それを政府だか東電だかは、断った。

日本の技術が未熟であることや、今まで隠してきたことを知られるのがイヤだったらしい。

 日本も国民住民の安全より自分たちの面子の方を優先したわけだ。

 

玄海原発が事故後、再稼働することに決まった時、

「この国は、本当に国民の安全を考えていない。

国民の目線に立つということがないんですね。

人の命と利益、どっちが大事なんですか?!」という言葉が忘れられない。

 

 アランという哲学者が居る。

彼は、幸福論で「私たちは他人の幸福を考えねばならない」として「その人たちのために

出来る最善のことは、自分が幸福になることである」という。

 幸福になるとはどういうことか、それは「自分に手綱をつける自分を律すること」だ

という。

 

原発は人を幸せには導くことはない。

なぜなら、自らに手綱を付けるということをしない、出来ない人たちによって運営されて

いるからだ。

 賄賂、汚職、ねつ造、誤魔化し事故隠しなど原発に疑問を持って質問した者は、排除

される発言の場を奪われることになる。

人の命や暮らしを一番には考えない、利益、経済によって動く集団。

だから、心を持った人はそこには居られないことになる。

 

原発が安全だという話は、笑ってしまう。

「原発が安全だと言うなら、電気は移送したら効率が悪いし東京に作ったらいいだろう」

と言う人が居た。

すると、

「いや、“何かあったら”大変だから東京はダメだ」と言う

「ということは、“何かある”ということが“ある”ってことですね」

「いや、ない」

「じゃ、東京に作ったらいいじゃないですか、東京が一番電気を使っているんだし」

「いや、東京がダメになったら日本がオワリになってしまうからダメだ」

 その人は、原発の危険と怖さを知っており、知った上で福島やへき地は何かあっても

人口が少ないから仕方がないとみなしたんだろうか。

 

 原子力パビリオンの見学に小学生が行った。

原子力についての説明があって、一人の子が質問した。

「そこに電気が来なくなったらどうなりますか?」

「電気は来なくなっても次の電気が来るようになってますから大丈夫です」

「でも、その電気もダメになったら原子炉はどうなるんですか?」

「だから、そうなったら次の電気が来るようになっているんです」

「そうじゃなくて、電気がなくなったら原子炉はどうなるんですか?」

「電気が来なくなることはないからそんなこと考えなくていいんです!」

と説明のお姉さんはヒステリックに叫んだ。らしい。

 

つうか、「安全だから大丈夫だ」と言い切ってきたが、安全だと思い込ませることで

危機管理がされていなかったことが、今回の人災事故で判明した。

安全だから大丈夫だからと、何かが起きることは予測も想定もせず準備もされていな

かったのだ。

今回のことは、“想定外”なんじゃなくて人の奢(おご)りと怠慢(たいまん)の結果だ。

 

犯罪の検挙率が高いことが自慢だった日本。

そこの裏には、決めつけで犯人が決まるとそこに向けての検証が行われてきた。という

事実がある。冤罪大国日本。

 日本の構造として「初めに答えありき」そこにごり押しでのこじつけと、帳尻合わせが、

隠ぺい体質がある。

中国が、世界に能力を誇りたいが為に急いで作って動かし脱線した列車と原発は何ら

変わりがない。

「日本を世界に誇れる一等国にするんだ。これからは原子力だ」と白洲次郎が中曽根を

アメリカに行かせたが、元々扱う能力もなければちゃんと管理する力もなかったんだよ。

それは、世界中どこの国も核に手を出す力はない。

 

 原発のお蔭で好景気になって一時でもいい思いをしたんだから原発の批判をするのは、

恩知らずだ。と言う人が居た。

 原発がなくなったら日本は貧乏になる。そうなったら自殺者はもっと増えることになる。

と言う人が居た。

 

60年前、「処分のしようがない核の廃棄物をどうするつもりなんだ?」という質問に

「そのうち科学が発達して処理出来るようになるだろう」と答えた人が居たが、未だに

何も出来ていない、それどころか新たな問題が起きてきている。

「核は抑止力になる」と言った人も居た。

 

 戦争を体験し、原爆にあった人が言う。

「どんなにいいわけしたって戦争はゼッタイに悪で、どんなに正当化したって原爆は悪だ。

対立のない戦争のない世界にするために敵も味方もなく協力していかなければならないん

だよ。

それが人間の義務で、権利で、ツトメ(務め、努め)なんだよ」と。

 

 核と戦争は同じ、人間はそこから手を引き、本当に安全で安心出来る平和な地球にして

いかなければならない。

 

 悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力による。

幸福は「行動」の中にしかない。  とアランは言う。

 それが、幸せの道だと。