黒い犬(ハナコ)

 

 私は、小さい頃から動物が大好きだった。

でも親が、特に母が、動物が嫌いで家で飼うことは許されなかった。

なので、小学生になると、近所の野良犬を手なずけ餌をやり連れ歩いた。

私は、犬を欠かしたことはないが、一度に何匹も手なずけるということはしない。

 一匹と仲良くなるとそれはもう心の友みたいな感じで、それ以外の犬にチョッカイを

出したり、無差別に可愛がるようなことはしない主義なのだ。

 犬の話は、64の番傘やスイッチ・オンでも書いているが、自分が大きくなって

自由に犬が飼えるようになったら、絶対に犬か猫が飼いたい!と思って、思い続けて

大人になり結婚した。

アパートから持ち家に移ったのが、忘れもしない1982年12月15日。

4歳と2歳の娘を連れて今のここの家に入った時、インテリア(室内装飾)の仕事をして

いた夫が自宅の一階を店としてオープンした。

しかし、二階の4部屋はまだ壁紙が張られておらず、床も板のままの状態だった。

家は完全に出来上がっていなかったのだが、店のオープンが12月18日だったので

無理やり引越してきたのだ。

 寒い冬だった。

それに加えて引っ越してから3日間は、風呂が出来上がっていなかった。

壁紙や床がむき出しなのはまだしも、窓にはカーテンがなかった。

カーテンがないと、冬は冷えるよぉ。

 和室にようやく畳が入りそこに夫が寝て、私と子供2人の3人は板の間にダブルベット

を置いてあまりの寒さに抱き合って寝た。

 

 小さい頃からの私の夢は、動物と不特定多数の客人が集まる家で、ゴチャゴチャで

暮らすことだった。

高校の時、ムツゴロウさんが北海道に動物王国を完成させたという話を聞いた時、

本気で行こうかと思ったこともあった。

 でも、寒さと早起きが一番の苦手であった私は、すぐに断念。

だけど、願いは願い続ければ叶うんだな。

 ゴチャゴチャと動物と暮らすことと、ワケの分からん客人が集まるっていう夢は実現

した。

 

 引っ越して間もなくのことだった。

夫の知り合いが犬を貰ってくれないかと言っているという。

 いくら犬好きの私でも、その時は考えた、迷ったさ。

カーテンもない、床も壁もむき出しの家、店も出して、幼い二人の子は保育園に預け、

私は勤めと店の掛け持ちで働いていた。

 迷っているうちに、「ほーら、こーれは、いい犬だ!」と丸く膨らんだ仔犬の腹を片手で

掴んだ夫が帰ってきた。

生後2ヶ月にも満たない、黒の四つ目(目の上に麻呂みたいな眉がある)柴犬だった。

名は夏子の提案で“ハナコ”と決まり、これが、私が初めて正式に飼った犬第一号となる。

いやはや、これがイタズラもので、我が家で唯一の暖房設備、頼みの綱であるコタツの

線を3回も食いちぎり、その度に風呂で温まったらそのまま布団に入り、入ったら出られ

ないという避難生活を強いられることになった。

 それから2月まで壁紙も床も張られず、カーテンもない。という状態の中で、その頃は

一階にあった風呂に入って二階に上がっていくと寒いだけでなく外から丸見えだった。

なのに、忙しい私は子供の世話に追われて、自分の着替えを忘れることがあった。

 四つん這いで階段を上がり、洋服ダンスの下から手だけを伸ばして下着を取り出し

屈んだままでそれを着る。ということを何度したことか。

 外からの車のライトに瞬間的に映し出された白い艶めかしい私の裸体。誰か見た人、

居るかな?(あら、見ってたのねー♪)

 

ハナコといったら、子供たちが調子に乗って走り回ったりしたら、もう喜んじゃって

その何倍も走り回る。

 子供と動物が居ると、もう家ん中は何時でも運動会だね。

次の年の春には、外に小屋を作って外で飼い始めた。

 ハナコは店の売り物のクッションを食いちぎったり、台所の物を荒らしたりして、

運動神経がいい分やることが派手で室内犬には向かない犬だった。

 外で飼い始めて、夏になる頃だったから、生後半年ちょっとの時だった。

「ハナコが太った」と夫と夏子が言い出した。

 ある日、コロンとした白っぽい仔犬が産まれているのを見つけた。

「えー、こんなに早く大人になるんだぁ」とハナコが成犬になっていたことに驚いたが、

「早く避妊手術をしなくちゃね」「子供貰ってくれる人捜さなくちゃね」

「面倒臭いな」などというような話しをした。

 それから間もなく犬小屋を覗くと、仔犬の姿がない。

いくら捜しても居なくて、夫は「いしかい(良くない)犬だって言ったから隠したんだ」

と言ったが、何処に行ったのか未だに謎だ。

 

 その頃、店はうまくいかず子供は小さく生活は厳しかったが、夏になると我が家の

西側にある小川と田んぼには驚く程の蛍が出た。

 子供たちと風呂に入ってから、家から一段低くなっている小川の横の小道に下りて

蛍を見に行くのがその頃の私たちの一番の楽しみだった。

 小道の半分は家の土地で、私は少しでも生活の足しにと畑を作っていた。

畑はそういうワケで家から一段低い所にありハナコの小屋は、家の北側に置かれていた。

 私が畑を耕しているとハナコは首をかしげてずっと私を見ていた。

夫も夢中で働いたが、私は子供たちの保育所の送り迎え、平日は勤めに行き、仕事が

休みの日は店番をした。

たまに仕入れも行き、その合間に掃除洗濯などの家事をこなす。

ハナコを散歩させる時間もないような、忙しい毎日だったが、今は全く姿が見られなく

なった蛍のように、キラキラとした良い時代だった気がする。(月並みなセリフだなぁ)

 ハナコは散歩が足りないので、首から紐が離れたら走り出して何処かへ行ってしまい

捕まるのを嫌がって呼んでも来ない。

 たまに夫が散歩に連れて行くと逃げられて私の職場に電話が掛かってきた。

私は、上司に頼んで時間休みを貰いハナコが居なくなったという公園に行った。

普段は厳しい上司だったが、その時は何故か笑いながら休みを呉れた。

あれは秋のことだった。

 隣が水道水に使われているという湖がある公園で、そこからハナコが逃げて行ったと

いう破れたフェンスから入り込んだ私たちは、落ち葉や小枝をパキパキ、ガサガサさせ

ながらハナコの名を呼んだ。

「あんたが呼んだ方がハナコは来るから」と夫は言ったが、ただ単に一人で捜すのに

飽きたんだと思う。

 ハナコはずるくて、遊ぶだけ遊んで満足すると捜し疲れた私たちの前に「エヘヘ」と

でもいうように自分から現れた。

 

夏休みが終わった頃だった。

ハナコが餌を食べなくなって急に痩せ始めた。

 その頃の我が家の経済状態は、米を買う金にも困りもらい物のウドンと自家栽培の

野菜で食いつないでいるようなもうヤバイ状態だった。

 美樹が夏風邪をひいて熱があっても病院に行くのを見合わせていた私たちだったが、

夫が「人間は口が利けるけど、犬は痛くても痛いっていえねぇんだから病院にかけなく

ちゃな」とハナコを動物病院に連れて行った。

 それは夫のなけなしのヘソクリで払ったが、なんと、1万5千円も係った。

そして、原因はハナコが吠えるので気の強い小学生にわき腹を蹴られたことだったようだ。

 それから、元気になったハナコは一人の子が通ると必ず吠えるようになった。

 

 その翌年の夏の終わり、もう一度ハナコは仔を産んだ。

近所に金持ちの家があって、そこでも黒い柴犬を飼っていた。

 そこの柴犬は血統書付だとかで何万もする犬だということだったが、面倒臭がりで散歩

をさせない。(人んちのこと言えないんだけど)

 そして、そこの犬は家のハナコと違って几帳面な犬で散歩しないとオシッコを出さず

我慢し過ぎて血尿になってしまうのだという。

 そういうワケで、その家では夜中になるとその犬を放した。

どうも、ハナコの産んだ仔の父親はそいつだったようだ。

 真っ黒くて最初は耳が垂れていたが、間もなくピンと立って

「こーれは、いい犬だ」と夫は言った。

仔犬の誕生は、夏子が一番喜んで「マリちゃん」と名前を付けた。

その年に入学した小学校から帰宅すると、犬小屋に首を突っ込んで何時間でも居た。

「二匹は飼えないんだよ」と何度も言い聞かせていたが、前から犬が欲しいと言って

いた人が、突然仔犬を取りに来た。夏子はまだ学校だった。

夏子に仔犬と最後の別れをさせてやりたいと思ったが、せっかく取りに来てくれたのに

また後でというワケにもいかず仔犬を渡した。

 学校から帰った夏子に「マリちゃん、可愛がってくれる人の家に行ったよ」と言うと

「ふーん」と言ったきりだった。

 秋も押し詰まってきた頃で、夕方になって夕焼けに染まる犬小屋の上にポツンと座り

暗くなるまで動かない夏子が居た。

それからも騒いだり泣いたりすることがなくて、感情を引きずることが多い夏子が

あっさり諦めたかと思ったが、やっぱりだった。

 何日かして車で走っていると突然「ウェーン」と大声で泣き出し「マリちゃーん」と

叫んだ。

夏子は、マリちゃんがどんなに可愛かったか、そしてお別れがちゃんとしたかったと

泣きながら私に訴えた。

 車を止めた私は夏子を抱きしめながら、良かった。と思った。

感情は封じ込めた時こそ恐ろしいことになる気がするし、夏子は変に我慢強いところが

あるので心配だった。

 

 そして、暮れも押し詰まった12月の30日。

やっぱり、忙しくてハナコを散歩させていなかったことが悪かったのだ。

 その少し前にも、夏子が「ハナコの首輪が切れそうだよ」と言っていたのに、買いに

行く時間がなく、正月になったら買いに行こうと思っていた。

 その日疲れが溜まって起きられず、やっと子供たちにご飯を食べさせると次々と店に

お客が入ってきた。

 そんなにお客が入ることは滅多になかった。

私も食べていなかったが、ハナコにもまだご飯をやっていなかった。

 夫か夏子にでも頼もうかと思いながら、店は私一人でしていたので頼む暇がなかった。

 

「お母さん、ハナコが逃げてるよ!」という夏子の声で驚いた私は、お客に待ってもらい

ハナコを追いかけた。

ボロボロだった首輪が切れたのだ。

子供の時、チビが目の前で死んだ時の恐怖がよみがえった。パニックになった。

一度は捕まえた。

でも、必死の形相で押さえ込む私の腕の中から、ハナコは飛び出した。

もう一度追いかけ、走っているとサンダルが脱げ、裸足で追いかけた。

交差点の所で、ハナコはトラックを潜った。

横断歩道の横に立つハナコの所に追いついた時、ハナコはパタリと倒れた。

振り返って私を見た目が黒かった。

抱えるとグニャグニャになっていた。

ハナコを抱いて店に戻り、店の前にあった台に座り込むとお客が次々と帰って行った。

ホコリ臭いまだ暖かいハナコを撫でていると、手が、指が黒くなった。

涙が出て止まらなかった。

 

 それから間もなく店を閉め、実家の近くのお寺にハナコを連れて行った。

猫のミミやマルチーズのメリーもそこに埋めてもらっていた。

 そこは、子供の時から大好きだったお寺だった。

普通の寺は、動物は受け付けないと聞いたが、そこの住職さんは、お墓の端に埋めてお経

を唱えてくれた。

 その20年後、その寺が、あの親鸞聖人の唯円の寺だと知る。

 

家族4人でハナコとお別れをした。

夏子と美樹は、後になって、

「ハナコも可哀想だったけど、お母さんの方がもっと可哀想だった」と言った。