保育参観

 

 孫の保育園で参観日があるから来ないか、と娘からの誘いがあった。

夏の暑い日、プール遊びをする姿が観られるという。

 出無精の自分出掛けるのはちょっと面倒だったが、興味は大いにある。行くことにした。

 

 何時でも自由に帰れるように、自分の車で一人保育園に行く。

しかし、孫のクラスに行ったが父兄らしき人は誰も見当たらない。

 子供を連れて登所してきた母親に「今日は保育参観じゃないんですか?」と聞と、

「あら、今日、○○組さんの番じゃないですよ」とのこと。

 アッチャー、例によって日にちを間違ったか?と、車で5分の娘の家に行く。

ガレージに娘の車はない。

 仕方がない、もう一度保育園に戻る。

広い駐車場に車を停めると、さっき入って行った隣の部屋からこっちを見ている娘と孫の

姿発見。

 あーあ、例によって組の名を間違え、違う部屋に行っていたのだった。

 

 3歳児の部屋のドアを開けると、既に先生の話が始まっていた。

小さい7つのテーブルに、約5人ずつの子供が座っている。

 父兄といっても母親ばかりだったが、20人足らずの親にも聞かせようとした先生の話。

私は入ってすぐの部屋の角に立つ。

 母親たちが壁際に立ったり座ったりしている中、娘が中央のテーブルに座る孫の横に

居るのを見て何か(孫がごねた)あったのか?と思う。

そして、先生の話から手遊びに移り、“お当番さん”になったテーブルの子供たちの挨拶

があったり、歌を歌ったりと続いて行った。

その間中孫は「マーマ、マーマ」と終始グズグズやっていた。

そして、私のすぐ左に立つママの娘も「マーマ」とママを連発。

その子は、椅子に座ろうとせずママの足に自分の足をからませてぶら下がり、先生の話

などお構いなし。

その状態にママは躍起(やっき)となっていた。

小さい声で「ほら、先生のお話聞いて」

「ほら、椅子にすわって」と先生を指さしたり娘を自分から引っぺがそうとしている。

 その姿が大変そうで、思わず「こっちへおいで」とそのママを引っぱると不意打ちを

掛けられた子供に隙が出来、斜め後ろに居た私を振り返ったママは急いで子供から離れた。

小さな低い傘立てがあったのでその後ろ側にママは立った。

子供もそこに来ようとした時、丁度“おばけなんてないさ”の歌が始まった。

 その子はきっと歌が大好きなんだろう。

ささっとテーブルに戻り、そこに立って歌を歌い出した。

 大きな口を開けて歌っている。

ニコッとママと私は顔を見合わせた。

 きっと、今日はママが一緒に保育園に行くっていうんで、娘は嬉しかったんだろう。

そして、ママも嬉しそうな娘との距離感がつかめず離れ時を失ってしまったんだろう。

「ママが居るのに一緒に居てあげないのは可愛そう。なんて思うと子供は見抜くよ。

当たり前のことなんだから、あっさり離れた方が子供は納得するんじゃない?」

「そうですね」とママは額に汗をかいたまま頷く。

「何か、可愛そう可愛そうって思っていると子供に回り道をさせてしまうような気がする

なぁ」と私は言った。

 歌が終わった子供はすんなりと椅子に座った。

座ったが、座ったままズリズリと椅子をママの方に寄せてきた。

「ママ、これでいいんだからね。自分で椅子に座ったってことが重要なんだからね。

こっちに来ても黙っててね。知らんぷりしててね」

「はい」

 とかく大人は欲張りだ。

一つ出来たら次を望む。

理想の形に当てはめようとしがちで、それをしようとすることで、精一杯頑張って踏み

出した一歩に茶々を入れ、子供の気持ちを乱すことになる。

子供は、先生の方へ顔を向け、話を聞き始めた。

よしよしと思っていると、そこへ何人か居る中の一人の先生が来た。

そして「ほら、せっかく座れたんだから今度はテーブルの前に座りましょ」と、

子供が座った椅子をズーっとテーブルの前まで押した。

 その途端、子供は椅子から床にズリッと降りた。落ちたんじゃなくて、降りた。

「分かる?

あれだよ。大人がやってしまう大間違いは、

大事な大切なことは、子供が自分で考えて、自分の意志で行動すること。

それが不完全であっても、自分の意志で動いた。行動した。ってことが大事なの。

形だけに囚われるとそこにあった大事なことが消えてしまうんだよ」

「ええ」

「ねっ、みんなと同じに椅子に座っているという形が大事なんじゃなくて、

自分の頭で考えて、自分の意志で、自分が決めて自分が行う。ってことが大事なんだ」

「ええ」

「脅かされたり、何かに釣られたりしてじゃなくね」

子供であろうが、大人であろうが、それが全ての基本であると私は思っている。

 

そこへ、絵本が配られることになり先生が

「さあ、椅子に座っていない人は貰えませんよ」と言う。

 次にはプールに入る準備。

「着替えをしないとプールに入れませんよ」と言う。

どうも、そこの保育方針は足並みを揃えることに重きを置いていると見た。

着替えはロクに脱ぐことも出来ていない子にも脱いだら表がえしにしておきましょう。と

喧しく、先を急がないでユックリやらせてやってくれ。と思う。

 

 左の子と同時に右側のママの娘も先生の話を聞かないので困り果てている感じ。

そのママは、先生の方を向かずママの方ばかり見て話し掛けてくる娘に、怖い顔をして

目配せしたり、先生の方を指さして見せている。

またもや、出てくる言いたい病。

「ねぇ、何でこの子が先生の方を見ないと思う?」と口にタオルを当ててそのママに

話し掛ける。

「どうしてですか?」

「ママが『先生の方を見て』って言うから見ないし『話を聞くのよ』って言うから聞かな

いんだよ」

「えっ、そうなんですか?」

「騙されたと思って、一回知らんぷりしてみなよ」

 そのママは、子供をずっと見ていて一時も目を離さない。

だから子供はママが気になって先生の方に気持ちを向けられないでいる。と私は見た。

絵本が配られて先生が説明しる時、「ママ読んで」と言ってきた娘に

「自分で読めるでしょ、ママに読んで聞かせて」なんて言って、二人の世界を作っていた。

 

「どうしたらいいか分からないんです」とそのママは言った。

「んじゃ、今やるのは、ママが子供の方を見ないで先生の方を見て、先生のお話を聞く。

子供を目で縛るのをやめる。って、ことかな。

そして子供がママを見た時、目が合ったら、ニッコリすること。

そしたら、また先生の方を見るんだよ」

 そして、ママが子供から目を離し先生の方を見始めたら、娘が先生の方に顔を向けた。

でも、気になるのかママは、娘を見る。

 すると、娘もママを見る。

ママは怖い顔をする。

 すかさずママを突ついて「ニッコリ」と言う。

照れたように笑顔を作るママ。

 いいねぇ、素直。

何回目かに、目が合った娘に向かってニコッとしたママに「オッケー牧場」と言った。

 

 子供を育てる時、背中で教えろ。という。

親は、大人は、子供の手本になればいい。

先生の話を聞く子にしたかったら、子供にばっかり気を向けないで、自分が先生の話を

聞いたらいい。

 明るくてハキハキして、人の話をちゃんと聞く人になって欲しいと思うなら、自分が

そうする。

 見せようとしなくていい。子供はちゃんと見てる。

 

意気地無しで弱虫だった人が、自分が子の手本になろうと勇気を持ってひるまずに事に

あたる努力していたらいつの間にか弱虫を克服していた。という。

逆上がりがどうしても出来ず大人になりそれがコンプレックスだった人が、子供には

そういう思いをさせたくないと、そのやり方を一緒に考えやっていたら出来るようにな

った。という。

子育ては、自分の育て直しでもあると聞いた。

 

「あのぉー、一つ聞いてもいいですか?」と、ママが言った。

「いいですよぉー」

「ウチの子、食事の時に落ち着きがなくてフラフラしてちゃんと食べないんですけど

どうしたらいいですか?」

「んー、先ずは、ママが、食事の時に落ち着いて座ってる?」

「えっ、  あー、

座ってないですね」

「うん、そうか。

分かるんだけど、私も共稼ぎで時間に追われて、食事中も洗濯とかしてたからね。

でも、本当に落ち着かせたいんなら、ママが落ち着くことだね」

「はい」

「あとぉ、食事前に何か食べさせてない?」

「あっ、  ええ。

家に帰ってすぐにご飯の用意が出来ないので、可愛そうだからって何かあげちゃってます」

「だろうね。

子供だってなんだって、お腹がすいてたら集中してモリモリ食べるもん。

お腹がすくことは可愛そうなことじゃない。と私は思うんだ。

お腹がペコペコ、喉がカラカラ。

そこで食べたり飲んだりした時の喜びと感謝の気持ちは、ペコペコとカラカラを体感した

人にしか味わえないものだと思う。

少しくらい腹が減ったって死にゃしないんだから、少し我慢すればちゃんと食べられる

んだから、我慢する。ってのも、幸せなことの一つだと思うよ。

食事の喜びは、御馳走だけじゃなくて嬉しいとか楽しい、落ち着いた安心、それに空腹

じゃないかな」

「そうですね。

そう言われたら気が付いたんですけど、子供がお腹がすいていないかとか、喉が渇いて

ないかって、何だか何時も不安なんです」

「そっかぁー。

あっ、そうそう、ガンジーの言葉に『精神性の最大の要素は、“恐れない心”である』って

あったな」

「スゴイですね」

「だよねぇー」

 

 あなたの子は、あなたの身体を経て生まれてきたあなたの子であるけれども

あなたを幸せにする道具でもなければ、あなたのやりたいことをかわりにする代理人でも

あなたの手柄を立てる道具でもない。

 あなたの子は、あなたの為に幸せになるのでなく、その子自身の運命宿命を背負い、

その子自身の幸せも苦悩も希望も自分で背負って、その子の人生を歩いて行く別の人間。

 でも、その人をずっと見守っていける。

 

そして、私の子と言う時、そこにある誇らしさ、喜びと優越感は、執着心である。と

仏陀は言う。

 

 何時ものことだが、話がドンドン大きいっていうのか、ズレてくのが寿玄夢流。

 

 ママ達にマザーテレサの言葉を伝えた後、言った。

「ところで、私の孫なんだけど、最後までグズグズ言ってたあそこの子」

「えー、そうなんですか」

「そう、こんなバアチャンが居たら子育ての役に立つとか思うでしょ。

そーんなことないんですねぇ。

みーんな、自分が中心となって七転八倒して頑張っているんだなぁ。

だから、私は娘の考えてやっていることに口を出さないことが修行だと思っている。

本当は出したいんだよ、これがぁー。

でも、みんな、一所懸命悩んで、一所懸命間違って、一緒懸命正していこうと頑張って

いるんだよなぁ。

ステキだよね」

「はい」と答えたママの顔を見るのが、照れくさくて眩しかった。

 

 

 マザーテレサの言葉

「思考に気をつけなさい、思考はいずれ、言葉となります。

言葉に気を付けなさい、言葉はいずれ、行動となります。

行動に気をつけなさい、行動はいずれ、習慣となります。

習慣に気をつけなさい、習慣はいずれ、あなたの性格となります。

性格に気をつけなさい、性格はいずれ、あなたの 運命となります」