不幸の手紙

 

 中学校に入った頃だったかな?

不幸だか幸福の手紙ってのが、突然流行ったことがあった。

 友人の所にそれが来た。

その時、私はまだ貰っていなかった。

 そう、それを面白いと思っていた私は、自分のところにも来ないかな?と、密かに

楽しみにしていた。

 それが来た者達は、「嫌だわぁ」「怖いわぁ」と騒いでいた。

その手紙が来ない私はちょっと変わり者で、つまり不幸の手紙を心待ちにするような

人間で、だから手紙が来ないのかな?なんて思っていた。

 どうして手紙が欲しかったのか。

私は決めていた。

その手紙が来たら、絶対に誰にも出さない。と、その為には私の所に手紙が送られて

こなければならなかった。

 

 ご存知かと思うが、その手紙は「この手紙を貰った人は、同じ内容の手紙を5人だか

10人だかの人に出さないと不幸が訪れる。という内容のもので、それを一字一句変え

ずに出さなければならない」という所まで同じに書いて出さないと不幸になるというモノ

だった。

 それを貰った友人が、誰かに出すのは嫌だし、出さないのも怖いと、私に相談してきた。

それを聞いて私は嬉しくなった。

「じゃあ、その手紙全部私に出したら?」

「えー、そんなこと出来ないよ」と友人は言いながら、切手代が勿体ないと手紙の束を

私の所に持ってきた。

 

 その時、思った。

その幸福だか不幸だか分からんが、その手紙を出す人は、幸福な人間だろうか?

 そんな手紙は嫌いな人に出せばいいんだという人が居た。

友人は私に手渡したてきたが、その人は本当に私の友人だろうか?

「『私に出したら』と、言ったじゃないか」と言うかもしれないが、出したのはその人の

意思だ。

 

 私の思う幸せな人間とは、目覚めた人、或いは目覚めようとしている人。

迷信を信じて恐れていることは、不幸だと思う。

人を踏みつけにしても、自分だけ良くなろうとしている姿は、浅ましく醜(みにく)い。

 

 私って怖い人間かもしれない。

結構何でもいいと言っていながら、(私はいいけどあんたはそれでいいのかい?)と

思っている。

 自分がどう生きるかは、その人本人が決めて行うしかない。

 

 あー、私って子供の時から同じなんだなぁ。と、不幸の手紙を思い出して思った。

 

 そして、そろそろ本を出すことになりそうなのだが、今、考えていることは、

本が出て何かの賞を授与されたいということ。

 何故なら、それを断りたいから。

断るタメには、与えられなくてはならない。

そのセリフは決まっている。

「寿玄夢さん、〜賞に決まりました」

「有難うございます。でも、いらないです」

「何故ですか?」

「めんどくさいから」

     きゃー、面白い。