普通って何?

「才能なんかなくていいから、普通が一番!」と言う人がいた。

才能なんか!?普通が一番!?

「じゃあ、普通って何?」とその人に聞いてみた。

「普通っていうのは、特別何か優れてなくても、取り柄がなくても、有名なんかならない

で、特別お金持ちにもならなくていいから普通の学校に入って、普通に結婚して、子供で

も作って、普通に年をとっていけたらそれでいいと思う」とその人は言った。

「ふーん、そうなんだぁ」と私は言った。

 

 私も大人になったもんだ。以前の私だったら、ムキになって反論を始めていた。

 あー、ここの場があることで想いを吐き出せてよかったー。

読む人には災難かもしれないけどね。

 

 私が思う普通とは、っていうか普通のモノはない、と思う。

そして、逆をいったら総てのコトは普通だと思う。

才能があるということは、普通じゃないのだろうか?

有名なことや、金持ちであることは普通ではないのだろうか?

 

普通の結婚して、と言うが結婚するということの不思議さに私は驚き、有り難いと

感じる。

有り難いとは、有ることが難しいと書く。

「子供でも作って」というが、子供は授かりものであり子が出来るということも不思議で

有り難い事だと思う。

「普通に年をとって」というが、年をとるまで生きられるということはモノ凄く、

有り難いことだ。

大体が、それらのことが普通だと思っているってことは、結婚しないことは普通では

ないということになる。

「子供でも作って」とは、子供はすぐ出来るもんだと、軽く考えているのだろうか?

それでは、存在しない命が現れる不思議も有難みも感じていないのではないだろうか?

 

「病気にでもならず普通に暮らせたらそれでいい」と、その人は言った。

病気は、特別な人がなるものではない。

人が何気なく使っている言葉に、私は異常反応する。

たまにこんな普通じゃない人(寿玄夢)の話を聞くのも、こんなもんだとマンネリで

当たり前だと思って受け流していることを見直す、いい(いやな)刺激になろう。

 

「才能なんかいらない」という言葉は、何だか、欲しいのに自分には無いので負け惜しみ

を言っているように感じる。

何故、負け惜しみと感じるか。

普通が一番と言うからだ。何事によらず、一番も二番もなかろうと、思う。

同じ意味で「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉が好きでない。

“より”という言い方は結局、オンリーワンを一番にしたいのであって、同じ土俵で争っ

ているじゃないかと思う。

「勉強なんか出来なくてもいい」とよく聞くが、出来るとか出来ないということにしか

関心はないのか?

勉強は出来るとか出来ないという評価じゃなくて、勉強することによって物事を理解す

るという満足や、努力して勉強することによって分かるという喜びに考えはいかないのだ

ろうか?

 努力せずに生きることは、普通に生きることとは違う次元にあると思う。

普通を違う言葉に置き換えるとしたら、あがらわずに生きるということじゃないだろうか、

と思った。

与えられた運命にあがらわずに生きる。それもよかろう。

しかし、

「与えられた運命を一度受け止めて、それから自分の努力を始める、それが生きるって

ことだ!」と、酵素浴の先生は言った。

彼は、2006年10月1日、突然亡くなった。

「私は、とっくに死んでる筈なんだよ。でも自分の力で努力、頑張りで、今生きてるんだ。

運命は自分の生き方で変えられる。それが生きるってことなんだ。

運命で決まっていたことを、自分の力で変える。

例えば、医者に後1年の命だと言われたら、1年と1日生きてみろ。

その1日は自分の力で生きたってことだ。それこそが、人生の勝利なんだ!」と、

何度、聞かされたことだろう。

 

 努力しても叶わないことを、そんなものいらないと否定してみせることは、諦めが先に

立っているように感じて、私の気持ちを苛立たせた。

 望みを持たないことは、自分を見切ってみせることは、一見謙虚に見えながら、

実は不遜であると、私は思う。

 

 近々、書こうと思っている“佐々氏”は、生まれつき、存在しない人が見える。

亡くなった人と話しが出来る。

 佐々氏からの教えは、私を納得させ、成長させたと思う。

その話しを、書きたい。

 私はいろんなモノが見える佐々氏を、普通じゃないとは全く思っていない。

普通じゃないとしたら、総てを飲み込む優しさと大きさだろうか。

 そういう意味だったら、普通を超えた人になりたいなぁ。と、思う。