憑依(ひょうい)

 ウワッ、何だか変な題名。と思った人がいるだろう。

私は、これを何と表現したらいいかネーミングに迷っている。

そして私は長年これを祓(はら)う、浄化する手伝いをしてきている。

憑依は、別名、“草生え”と呼び、お祓いは“草引き”と、私は呼んでいる。

今後は、そう呼ぶことにしよう。

 

 人は淋しがりやで夢を見る生きものだ。

淋しい時ほど夢を見て癒し、夢が叶わない時にそれを恨みや嫉み、嫉妬に変える人と、

自分が夢の世界に入りこみ、そこにのめり込んでいく人がいる。

 佐々さんと話をしていた時に、

「鬱と呼ばれている人の大部分は憑依じゃないだろうか」とふと私が漏らすと、

「えっ、そうじゃないですか。麻子さん、知っているじゃないですか」と佐々氏は言った。

私は自分の考えや感覚を否定したことはないが、話をしても一般的には通じないことだ

と諦めていた。

 私のこの感覚をどう表現したらいいか分からない。

しかし、分からないなりにもここに書き出し、まとめていってみようと思う。

 

 どういう人に憑依(草が生えている)と感じるかというと、その特徴は、

現(うつつ)を抜かしている。

背負いきれない苦しみや悲しみを背負った場合も身を守る一つの方法として現実から離れ

そのままになっている場合もある。

そして、そういう人は自分を御しきれない。我慢ができない、しようとしない。

快楽に流され溺れている。筋が通らない。失礼。

人の話が聞けない。損得や自分の感情に振り回されていて、大事なモノが見えない。

自分だけの世界に生きている。

 

 それが進むと、自信喪失、自己嫌悪、厭世観、自分がここに居ない感じ。

自暴自棄は、他人や物に向っての暴力や、自分を傷つけることで何とかバランスをとろう

とするが、周りを巻き込みながら自爆への道を進むことになる。

 

 どうしたらいいか?

そういった人たちと出会い数々の“草引き”の手助けを行ってきた。

 そこで、私が思った一番大事なことは、“草引き”には時期があるということだ。

そして、それを行うのは“その人自身”であるのだ。

「苦しいんです。どうにかして!」とその人は言ったりするが、

どうにかするのは、“その人本人”にしか出来ない。

自分が気付いて変わらなければ、一時調子が良くなってもすぐに元の木阿弥になる。

草生えも、草引き判断も、形だけを見ることは危険だ。

だからといって、形を大事にしないことは、怠け者の詭弁(きべん)や言い訳、逃げに

使われやすい。

 

草引きの方法、仕方は千差万別、言ってみれば全部が違うといった方がむしろ正しい。

その時、目の前に起きていることを曇りの無い目で真直ぐに見る。

同じ心で、真直ぐに聞く。

 損得、欲得、感情、好き嫌い、情報、などの色眼鏡によってそのモノと対峙することは

草引きの手伝いの手を鈍らせること以外の何ものでもない。

 また、私の場合は、情けや同情は不必要。

それどころか、軽蔑や憐れみを持ったらやってはならない。

 やってやる、やってあげる、やらせていただく、などという次元にいる時は、問題外。

 

何事にも天のお導きがあり、天の采配(さいはい)があり、期が満ちる瞬間がある。

ただ、それをしたいという思いに導かれ、何も求めず行う。

こういうことを言うと、「何か、宗教やってるんですか?」なんて聞かれるが、

何もやってませんからぁー。

 

次は、一つの草引きを書いてみよう。