言い訳

 

 言い訳は、というか、言い訳がましいのは嫌い。と思って来た。

でも弁明や釈明は、良い、必要だと思って来た。

 で、辞書で調べてみた。

 

<言い訳>どうしてそうなったかという訳を話すこと。

<弁明>ものの筋道を説明して明らかにすること。言い訳すること。弁解。

<釈明>人からせめられたり、思い違いをされたりした時、自分の立場や事情を説明し

    分かってもらうこと。

 

なるほど。その3つは同じであったと、知った。

私は、言っていることが誤解されて再度説明しなければならないことが多い気がする。

それは私の言動がせっかちだったり紋切り型であることによって、相手の理解に辿り

つかない現れだと思う。

そして、言い訳は嫌いだ!という私の価値観、美意識によって、相手が納得するような

説明をしようとせず、相手の疑問を切り捨てるような真似を私はしてきた。

 そこに居る人が、人の話に聞く耳を持っていなかった場合、自体は更に悪化する。

実は、そういうことが過去にあり、その人とは断絶状態にある。

何故、今これを書き始めたかというと、そうなっていることに対して言い訳がしたい

のかもしれない。

 

 分からんやつは、分からんでよろしい!

聞く気がないやつは、聞くな!

 人の話を遮り、曲解する者との話は打ち切る。誤解していたければ、誤解してればいい。

という一見潔いようにも見える切り捨て御免の性格が、私の中にある。

 これを、“ムカドン性格”と呼んでいる。

 

とにかく、さもしい、見苦しい、浅ましい、みっともない。ことが嫌いなのだ。

それは、どんなことかというと、

<打算主義>

「これをやっておけば損がないからやっておこう」だの

「この人と仲良くなっておけばイロイロ有利だから、仲良くならなくっちゃ」

などという打算による行為を“さもしい”と私は思う。

 何も、やりたかったららればいいし、仲良くなりたかったら仲良くなればいい。

何を一々言い訳しながら行動を決めているのか。と、言い訳がましいのが嫌い。と思っ

て来た。

<上から目線、独占欲>

「そうよ、これは〜なのよ」って、何を知ったかぶりしてんだ。

自分のモノでもないのに、「ね、いいでしょう!」「これは、私が好きなモノなの!」と

いう独占欲。

「そうなるのは分かってました。どうして早く気が付かなかったんですか」

「私は、前から知ってました!」だから、なんなんだ!

「うちの〜が一番なんです!」そりゃよかったですね。

その人はふざけて言っているのかもしれないが、心がざわつく言葉を発する人の思考

回路というのは身についていて考えなくても反射的に言葉になって出る。

誰かが上手くいった時、何故か足を引っ張る人。

野球の評論家に「〜は良いんだけどねぇ」を連発する人が居る。

〜は良いんだけどねぇ?じゃぁ何が良くないんだ!と思う。

「良かったね」でなく「良かったんじゃないですか?」と奥歯に物が詰まった感じの人は

何を問いかけているんだろう?

<決めつけ>

「それでいいんですよ」って、何であんたがジャッジしてんだよ!

「あなたは、環境が良いからそれが出来るのよ、感謝しなさい」と言う人は、

それまでの経緯の何を知っているのか?そして、何の権利があって上からを命令してる

のだろうか?

この何を知ってるんだぁー!という人は多い。

そういう人は、ズカズカと人の領域に入って決めつけて話すのでインパクトが強く、

記憶残るので多いと思うのかもしれないが、とにかく人を認めたくないらしい。

「お金があるから言えるのよ」「場所が良かったから成功したのよ」

そして、自分が上手くいかないことは「世の中が悪いから」「親が悪いから」と何かの

せいにする。

この、何かのお蔭であなたは成り立っているのよ、と、何かのせいで私はダメなの。は

セットであるらしく、その人の認識する世界が全てであると思っているように見える。

仏の言葉の「無明とは何も知らないことではなく、何でも知っているつもりになって

いる心のことをいいます」を思い出すが、若しかして自分もそうなのかもしれない。と

考える。

<もっと主義の追い立てる人>

そして、一見向上心のようなもっと主義。

例えば、子供が絵を描いていると「上手ねー」と評価?誉めておいて

「でも、ここを強く描くと“もっと”良くなるわよ」と言う(アドバイスのつもりか?)

この“もっと”というセカシが子供だけでなく色んな人達を、どれだけ世知辛く生き

づらくしているか。

一度、良かった。で一件落着して、そこで落ち着いてみてはどうだ?と私は子供の時

からずっと思って来た。

『いいね』と思うことがあったら、そこで落ち着くことによってあやふやだった形が

固まる気がする。苗は植えたら根が落ち着き、土をつかまえるまで動かしてはならない。

本当に他人(自分)を育てるのは、手出ししない人であり、時間(トキという神)なん

じゃないかと私は思っている。

でも、人を追い立てる人は、自分を追い立てて生きているのかもしれない。

それは、その人が育った環境(親、家庭、社会、学校)であったり、自分の思い込みで

そうなっているのかもしれない。

だけど、その人はそれでいいのか?自分を追い立て、人を追い立て、人目を気にし、

比べ、ムキになって戦う思考回路で生きていて満足しているのか?苦しくないのか?

人(他)と戦う心を手放し、今という時をありのままに受け止め、心穏やかに楽しむ

訓練をする。

それに気付いて訓練をすることが出来る。

それが、シアワセというものなのかもしれない。と、私は思う。

 

ボーっとする時間が脳の修復作業をするらしい。

睡眠も瞑想もヨーガの呼吸やストレッチも良いらしい。

虚心坦懐(きょしんたんかい)って、何事にもこだわらず、素直でわだかまりのない

広く平らな心のことなんだってさ。    いいね。

 

 あ〜、アッタカイ、花が咲いて、鳥の声が聞こえる。