今を生きる

 

 店に子供の遊ぶスペースがある。

そこに、“あそんだら かたづけようね”という張り紙がある。

 

 子供が来ると「どうぞ、遊んでくださいねぇ〜」とそこのスペースに誘う。

すると、多くの大人が「遊んだら、片付けるのよ」と言い始める。

 楽しそうに遊ぶ子供たち。

そこに、離れた所から「遊んだら片付けするのよー」と言い続ける大人。  

 

 遊びが乗っている最中に、突然(子供にとっては)何の予告もなしに

「さ、帰るよ!」と片付けの余裕も与えず手を引っ張って帰ろうとする親が居る。

 納得のいかない子供は、「帰りたくない!もっと遊びたい!」と泣き出す。

 

 大人が先を読んで行動することはせずに、子供を引きまわし、混乱させて、その

理不尽を我慢させ、黙っていうことをきくようにすることが教育だと思い込んでいる人は

多い。

 

 中でも嫌なのが、先に書いた念仏のように「終わったら片付けるのよぉ〜」

を言い続ける親。

 そこに何の意味があるのか。と考える。

私はちゃんと子供の教育をしてますよ、というアピールなのかな。若しくは

 自分が子供から離れて買い物をしている後ろめたさでもあるのか。

 

 生きている時は、生きるがよろし。死ぬ時は、死ぬるがよろし。という言葉がある。

遊んでいる時は、遊んだらいい。遊び終わったら、片付ければいい。

 生きている時に死ぬことばっかり考えていたら、“ちゃんと”生きられない。

“ちゃんと”というのは、そこに身が、気持ちが入っている。ということだ。

 私は、食べながら栄養とかその効果とかを語る人が嫌いだ。

それは、食べ物を選んだり料理する時に考えたらいい。

 食べる時は、ただ味わってちゃんと食べたらいい。と思う。

ある食事会で「わたくしが前に行った帝国ホテルのレストランでは、〜でしたわ」を繰り

返す女性が居た。

「アメリカでは、〜なのよ」が口癖のの人も居て、その人は

「アメリカに行ったことがよっぽど嬉しかったのね」と陰で言われていることを知らない。

 

 恥知らずとは、何が恥であるのかを知らない。自慢高慢、恥知らずがする。ということ

を知らない人のことだ。

 

 そこにないものや居ない人の話ばかりする人が居る。

それは、何かを誉めていても、悪口であっても、聞いていて気分が悪くなるのは何故だ

ろう。

 夕焼けを見て「あ〜、綺麗だ」と思わず言った時、「でも、ハワイで見た夕焼けの方が

もっと綺麗だったわよ」と言う人。

 目の前の子供の行動に思わず顔が綻んだ時、「ウチの〜ちゃんも、この間ね」と違う話を

始める人。

 何故目の前のことに目を向けないのか。と思う。

食べている最中に突然「あ〜、もうお腹一杯。これ以上食べたらブタになるわ」と言う人

は、まだ食べてる人に気持ちがいっていない。

 

 そこで思うのが、今に生きていないから目の前のことが見えないんじゃないか。とい

うことだ。

 今に生きていないから目の前のことが見えないのか、目の前のことを見ないから

今を生きられなくなっているのか。

どっちが先か分からないが、目の前のことに目を向けて、感じて、味わったら、雑念

が入ってくることがなくなって、周りもちゃんと見えるようになるんじゃないか。と思う。

 

 そして、今を生きたら、心が楽になる気がする。

次の予定を立てて準備することは大事なことだが、準備をしたら今を生きる、今に生きる。

 

 話はあっちこっちするが、遊び終わって帰ろうとする子に間髪いれず

「はい!お片づけ!」という大人が居る。

 子供が今を見て考えて行動する余地を与えず、命令だけする親。

片付けをせずに、子供を引っ立てて帰る親も居る。

考えて行動出来ない子供が増えていると聞くが、その温床がそこにあると思う。

子供に考える余地を与えて(与えるって言葉は好きでないが)いない。

 

 じゃ、どういうのがいいか。

そろそろ買い物が終わりそうな時、「あと少しで帰るからね」と予告をする。

そして、終わったら「さぁ、お買いもの終わったよ〜、帰ろう」と促す。

たた、と走って来る子供に 「あれ、何か忘れてない?」と母親。

ん?と首を傾(かし)げる子供。

「後ろ、振り返ってごらん」

後ろを見て「あっ!」とオモチャを片付けに戻る子供。

「ピンポーン、当たりです」と母親。

「へへ」と片付ける子供。

それを待つ母親。

 

   きっと、そのお母さんの顔は笑ってるね。

 

 その子とお母さん、今を生きてる。

遊ぶ時は、遊ぶがよろし。

           片付ける時は、片付けるがよろし。