いじめの構造

 

 ずっと、思ってきた。

どんな偽善の仮面をかぶろうが、そこにある“悪”の構造。

 分かる人は、とっくの昔から気が付いていて、でも、ヌルリヌルリと姿を変えながら、

ずーっと続いているその悪の根本原理、その構造。

 それを、正すことは、出来ないんだろうか。

 

昭和22年、戦後にGHQの介入により学校教育法が出来た。

戦争に至った原因の一つに学校教育が大きいということで、民主主義が中心に置かれた。

 そして、昭和55年、文部科学省が“いじめを認めない”とした時に間違いが始まる。

 

 「いじめがあってはならない」と文科省が教育委員会に通達し、

教育委員会は、学校に「いじめがあってはならない」と通達する。

 校長は、「いじめがあってはならない」と、教員を集めて言う。

でも、事実、そこにいじめは存在している。存在していた。

 そこで、間違っちゃったんだねぇ。

いじめをなくすにはどうしたらいいか。に、教育者の心は行かなかったのだ。

 いじめがない。いじめがなかったことにするにはどうしたらいいか。に気持ちが走っ

ちゃったんだな。

 

 いじめの対応は出来なくなったんだ。

だって、先ずはいじめがあったことを認めないんだから対処のしようがないよね。

そして、

暴力いじめは、喧嘩ということにしたんだ。集団に喧嘩はつきものだから。

ウザイ、死ね、モノ隠し、無視。などのいじめは、トラブルという言葉に置き換えた。

それが、いじめをお化け化させた。

名前を変えていじめをなかったことにして、容認してしまった。

それは、教師、学校側もいじめの共犯者になった。ということだった。

 集団での暴力、カツアゲ、何人もで寄ってたかって殴り、金品を巻き上げ、万引きの

強要、裸にして写真を撮る、吐いた物を食べさせる、屋上からの飛び降りの練習、

トイレの水を飲ませる、たばこの火を押し付ける、ここに書ききれない程の事例が

そこには、ある。(まだ終わらず続いているから、あった。と、過去形には出来ない)

 それらの行為は、なるほど“いじめ”ではない。

いじめ、などという軽い言葉で済ますことの出来ない“犯罪”だ。

えーえー、学校にいじめはなかったですよ。いじめじゃない、“犯罪”があったんです。

暴行、恐喝、強要、器物破損、窃盗、自殺教唆罪。

 教師は、見て見ぬふりの幇助罪と、子供と一緒に笑った助勢罪が適用になる。

 

いじめで学校に行けなくなった子の親が、学校に転校届けを出したことがあった。

そこの理由の欄に「いじめの為」と書いたら学校が受けとらず、「親の仕事の都合の為」と

ウソの理由にしなければならなかった。という事実がある。

 なーんで、正直に真直ぐ出来ないのかなぁ。

ウソを書かせる。ってのは、法律違反じゃないんですかい?

 そう書かなきゃ受理しません。って脅しじゃねぇの。そこが学校だってか。

学校ってウソや誤魔化しを教えるトコなのかい?

 学校はポイント制なんだそうな。

だから、年間8万人のいじめがあるとされていても、学校からのいじめの知らせは、

殆どなく不登校も教育委員会に0で報告するんだって。(本当は8万人でもきかないと思う)

 小中高生の自殺者が、

    2006年  2007年  2008年  2009年  2010年

警察   315人   274人                 287人

文科省  171人                        156人

いじめによる死  6人     6人     3人     2人     4人

 急いで書きとめたんできちんとした数字が書けない所は空白にしたが、全部警察発表

より文科省の数字が6掛け以下だった。

何で、警察と文科省でこれだけの開きがあるんだ?

それに、自殺にいじめが原因の者がこんな少ないのは、おかしいじゃろ!

「いじめで自殺します。」って、書き遺していても、家庭にも問題があった。なんて言い

訳している学校に、誰が絶望してるって、子供たちだよなぁ。

 アンケートを取っても発表せず、学校側は中身を読まず、読んでも理解できず、

そりゃぁもう、都合の悪いことは、どうやって闇から闇に葬り去ろうかって七転八倒で

ジタバタしてるの見え見え。

 実名でアンケートや証言に立った子に恥ずかしくないのか。

 

 数字の誤魔化しって、毎週金曜日官邸を取り囲んで行われている“大飯原発の再稼働

反対のデモ”の人数の発表と同じ。

ここでも、笑っちゃったのが(もう、笑うしかない)、

警察が発表した、デモ行進の人数が、7万人。

で 主催者の発表が、17万人。

どうやったら、ここまでの開きが出るのか。出せるのか、不思議。恐るべし警察。

 最初の頃に何人かで始まったデモ行進が、20万人まで達した日があった。

が、あれだけの騒ぎがネットでは知ることが出来るが、テレビでは殆ど報道されない。

 その上確か2万人と言っていた。

「正しい報道ヘリ(ヘリコプター)の会」というのが、川中博史、古河義明、などで

デモ行進を空から映した。搭乗してたのは山本太郎。

 それは、テレビで一場面の映像では分かりようにない人の群れを映し出した。

あれの、何処が2万人なんだよぉー。

金権と財界に汚染された政治、同時にそれによって雁字搦めになっている報道。

報道が変わらなければ、日本は変わることが出来ない。かも。

 唯一スポニチだけが、「20万人デモ」と新聞に載せた。

事実を正確に伝える術があれば、人々は目覚めるかな。

そこで、危険人物のワシは考える。

ここまで汚い大人に翻弄されて、今の大人や社会にあきれ返っている小中高生に哲学を

教えてはどうじゃろうか。

昭和55年に教育法が変わった時、「善悪正義を教えてはならない」となり、

「指導はしても措置はしない」ということになった。らしい。

その後、いじめ、不登校、引きこもりが急増した。

優れた指導者が居ない時は、温故知新だ。

トルストイの「人は何で生きるか」を勉強としてでなく、心の拠り所として読ませたら

どうだっぺ。

 ちょっと難しいが、ハマーショルドの「道しるべ」

マザーテレサの言葉もいいぞ。

 アランもいいし、やっぱ釈迦やキリストの言葉はスゴイ。

親鸞聖人の歎異抄なんて、今の世の中で起きてる間違ってることの、更に問題のすり替え

の核心、真髄を突いてるって気がしてならん。

 

始めに答えありきで、そこに向けての帳尻合わせ、(冤罪)言葉のすり替え、ウソ、

ねつ造、保身のタメに人の苦しみを過小評価する。これが、悪の根本原理だ。

そして事実を隠ぺいする。ねじ曲がった者にとって真実は不都合だからね。

コソコソ、コソコソしやがって、正々堂々と生きてみろよ!

 おい!原発! お前んとこの話だぞ。学校か裁判所の話かな。なんて他人事みたいな

顔してんじゃねえぞ。

原発を建てたい所を誘致してから、そこの場所が安全だっていう作文作って、

安全対策なんかしたら危険なのかな?って疑われちゃうからって、安全対策もしないで

ベントも付けずカバーもしないで、世界の基準では原発の何キロか以内には学校や病院

商店街を建てちゃいけないんだっていうじゃないか。それなのに建てちまったから、

福島はこの有様。どーすんだよぉー。

 その上、活断層の事実隠して、データー隠して、足りる電気足りない。ってウソついて、

安全じゃないのに安全だって言い張って、失敗隠して(バレバレだかんね)

大飯も動かしちまってよぉ。

 今も福島の作業員に放射線を計る機械持たせなかったり、持たせても線量が出ないよ

うに鉛のカバーしてたりすんだとぉー。(ギャグか!)

 人を踏みつけにするのもいい加減にしろ!

 

 みーんな同じ構造の、戦争、原爆、水俣病、原子力発電、ハンセン氏病、冤罪、迫害、

差別。

 人の心とか個人の幸せなんて、考えていないんだよね。って、考えたことある?

 

 それ(悪)が、蔓延(はびこ)る土壌となるのが、権力と治外法権の社会を独自に持つ

集団、学校、会社、組織、財界政界、官僚の世界、軍事、警察。

 

 今回のいじめで自殺した中学2年生男子の父親が述べていた。

「あれからの学校の対応を見ていると、息子は見殺しにされたのではないかと思う。

今もいじめが続き、自殺が続いていると耳に入り居たたまれない気持ちでいる。

今すべきことは、事実を明らかにすること。それをしなかったら先には進めない。

それをする為に裁判をおこすことにした。

息子が何故死んだのか、私はただ事実を知りたい。」

 

 そう、ワシも、何事に於いても、だたただ、事実が知りたい。

それが不都合な真実であったにしても、事実、真実を知らなければ正しく思考することは

出来ず、正しい答えは得られず、信念を持って先に進むことは出来ない。

 自信も信念も、何かを誤魔化していては持つことは出来ない。

 

 だから、事実を知らない(知ろうとしない)者と話すのは大変。

ちゃんと調べず、人の話を聞かず、事実を知る努力をせずに、議論に勝つことを一番の

目的とした者の、自分勝手な憶測による堂々巡りの話。

事実の説明をすれば、何故そういうことを知っているんだ?

それは、何処の誰が言ったのだ。そんなのウソだ。随分物知りだね。学者にでもなりな。

と、その内容は聞かず、ちゃんと考えようとせず、話を茶化し、バカにして終わる。

しかし、国会など公の議会の多くも同じであることに驚く。

 

 自分の好き嫌いを超えて、色眼鏡を外して、事実を知ろうとする心を持たなければ

真実には、たどり着けない。

 今、この世を変えるとしたらそれぞれが自分を乗り越えることから始まる。

と、私は確信している。

 そして正しい情報と知識。それを知った上でそれぞれが、自分の本当の気持ちで考えて

答えを出す。

 その時に柵(しがらみ)も取りはらって思考する人間でありたい。

 

 教師、教育委員会、親、いじめられた子、いじめた子、見て見ぬふりをしていた子、

そこには、本当に気が付かなかった者も居るかもしれない。

 でも、本当に気が付いていなかったのか?

全く気がつかなかったという教師は、鈍感で無能。

気が付いて動かなかった教師は、卑怯者で教師ではない。

助けてくれと泣きながら訴えたのに、手を差し伸べなかった教師は加害者。

 加害者になるから自分の周りではこういうことが起きませんようにと思っている者は、

自分さえよればそれでいい事なかれ主義の日和見主義。

 

 未だ自分がいじめたと認めていない子。それは、遊びだった。という。

本当にそう思っているのか?

 陰湿ないじめを繰り返す子、しつこいいじめを繰り返す子に多いのが、

強ければいい。学力さえあればいい。という親のしつけがあるという。

 肉体的、精神的に虐待を受けてきた子が多く、高学歴、高年収の家が多い。という。

その子たちを、いじめを受けている子たちと同時に救い出し、教育していかなければ

いじめはなくならない。

 しかし、いじめられている子を救う為にいじめをする子を救うのではない。

その子はその子自身の為に救われ、正しい道に戻り生きて行く権利と義務があるのだ。

 それが、結果的にいじめられている子の救いになったとしても、いじめられている子の

為に救うのではない。ということを忘れてはならない。

 

いじめの見分けは難しい。と言う人が居る。

いや、簡単だ。

受けた本人が、「いじめだ。辛い」というならいじめだ。

頭から牛乳を掛けられて、遊びだった。で済むか?

見えない部分にシャーペンを突き立て「誰にも言うなよ」と言うのは、遊びではない。

その上隠そうとしていることで確信犯だ。

 いじめは、いじめた側や傍観者にそれを査定する権利はない。

いじめられた者が感じる悲しさに、ことの重大さは勿論あるだろうが、それ以前に、

そこに存在する“悪意”が悲しく辛く心を押しつぶす。それが、いじめそのものなのだ。

 

“ふざけ”“じゃれあい”と、“いじめ”の境目は、悪意だ。

“悪ふざけ”には、リスペクトがない。

苦しむ人や痛がる人を見て楽しい、笑ってしまうというのは、犯罪者の脳である。という。

しかし、思春期というのは、色んな思考感覚が現れる時期でその残酷さやナイーブな

アンニュイな状態というのはあって当然の時期であることは色んな文学で表わされている。

しかし、その悪の芽は早めに摘めば大きくならない。

そして正しい道へと正すのが、大人や教師の役目であり、そこに存在する悪は、人間が

より深く大きくなる為の曲がり道でもあるのだ。

がぁ、大人が、そこまで常に見ていることも正すことも不可能。

そこで、ここでまた言う。

一人ひとり(教師、親、子供)が、自分で自分を乗り越える。ということを知る。

そして実行するのだ。

戦う相手は、誰でもない自分。であることに先ずは気付こう。

気がつかなければ、何をしていいか分からない。

嫌なことからは逃げたい。面倒なことはやりたくない。

という逃げは攻撃に変わる。ムカつくと、誰かモノに当たる。

淋しさや欲求不満を暴力や攻撃に替える。嫉妬を抑えられない。怒りを抑えられない。

欲しい者を我慢出来ない。食欲を抑えられない。等々、弱い自分が居る。(私は居る〜)

その弱い自分と戦おうとせずに代償行為(気分転換とは違う)に逃げていると、

どこかに逃げずにはいられない人間になる。

買いもの依存、過食、ギャンブル依存、アルコール依存など。

そういう逃げたい弱い自分と戦う。ということを、知る。

「欲しいのは、自分に負けない心です」

 

卑怯で嘘つき、お為ごかし、強いモノに媚びて甘い汁が吸いたい、腹立ちを弱いモノに

八つ当たり、恐怖を怒りに替え、劣等感を上から目線に替える、孤独を支配欲に、淋しさ、

欲求不満を暴力を振るうことでスッキリさせる。

本当は助けたいけど怖いから黙っている。本当は嫌だけどいじめられるから言わない。

見て見ぬふり、嫌なことは誰かに押し付けて逃げる。

それで、いいのか?自分に恥ずかしくないのか?

人に笑われる。なんていうちっぽけなプライドでなく、そんな自分を認められるのか?

好きになれるのか?

私が子供の頃、理不尽な目にあって悔しかった時、見つけた言葉。

「天知る、地知る、我知る」

あーあ、この言葉を子供らに教えてやりたいなぁ。

誰かに認めてもらいたい、とか分かってもらいたい。なんてコジキみたいに貰いたがっ

ていると自分がぶれて真直ぐ生きていけなくなるんだ。(私は)

 だから、誰かに求め始めた時は「天知る、地知る、我知る」って心に中で唱えるんだ。

誰が分からなくったって、おてんとさんが知ってるよ、この地べたが知ってる。

 そして、誰より自分が知ってる。それに笑われない生き方をしよう。って。

そしたら、分かってもらいたい。って何かに媚びてる自分はカッコ悪い。って思うんだ。

 

言われたから、やられたから、言われるから、やられるから、で自分の行動を決める

んじゃなく、自分の意志で自らの誇りに掛けて行うんだ。覚悟を持って。

人や世間から見た名誉でなく、本当の自分自身の名誉に掛けて行う。

それをサポートするのが、社会。であって、大人。であって欲しい。

自分は、そういう大人になるよう努力する。

私は、ここで書くことで、自分の想いを発し続けるんだぁ。

 

 あー、世の子供らにもコレを読んで欲しいなぁー。

 

 

 

 

 マザーテレサの言葉

「思考に気をつけなさい。

 思考は、やがて 言葉になります。

 

 言葉に気をつけなさい。

 言葉は、やがて 行動になります。

 

 行動に気をつけなさい。

 行動は、やがて 習慣となります。

 

 習慣に気をつけなさい。

 習慣は、やがて あなたの性格となります。

 

 性格に気をつけなさい。

 性格は、やがて 

        あなたの運命となります」