イジメをなくす

 

 NHKのドラマ、“海の底の君へ”

内容つうかあらすじは、学生の時にミミズを食べることなどを強要され続けた少年。

肉体、精神的苦痛を与えられ、抵抗する術もなく集団で担ぎあげられ海に落とされる。

 そこには、それを見て笑う少年達が居た。

間もなく学校に行けなくなって引きこもり、母親はそれを苦に家から消える。

父と妹と工場跡の部屋を借りて生活する3人。

少年は働くようになっても当時のことがフラッシュバックして動けなくなり無断欠勤して

クビになることを繰り返す。

少年の心は、海に落とされた日から海の底に沈んだまま、母、父、妹が不幸になった

原因は自分にあると自らを責め続けていた。

 少年はコンビニでのバイトが出来るようになったが、万引きで捕まった少年に過去の

自分を見ることになる。

 イジメのターゲットとなった少年に万引きした物を持たせて逃げる遊び(それは犯罪)

で捕まった少年を引き取りに来た少年の姉との出会いがそこで生まれる。

 その頃、イジメをしていた同級生から同窓会のハガキが来て、出てこいよと誘われる。

少年は行かないつもりだった。

そんな時、心配していた少年がマンションから飛び降りた。

一命は取り留めたが、意識は戻らない状態になっていた。

 学校は事実をありのままに見ようとせずイジメがあったという確証はないと言い出す。

両親が海外出張で不在であったことも原因に考えられないか、と言う。

 そこで学校側から依頼された弁護士が15年前、イジメの主犯だった少年だった。

少年の妹は結婚を間近に控えていたが、破談となる。

少年は同窓会に行くことにした。

身体に爆弾付けた少年は、インターネットで事の一部始終を配信しながら、同窓会に向

かった。

 

 まぁ、こう書いていくと爆弾の件(くだり)を除けばよくあるストーリーじゃねえか

と思う人も多いだろう。

そう、本当によくある話なんだよ、ありきたりの陳腐な話しという意味じゃなくて、

ホントにそういう事がゴロゴロあるんだよ。

 何があるのかって? 弱者の声を聞かない、助けの手を出さない、そのクセして助けて

あげることが出来なかった。なんてぬかしやがる。

 

 この話は本当にあった事実に基づいて作られ、監修を斉藤環という臨床の精神科医が

行っている。

 斉藤環氏の臨床の話は18年〜20年位前だった気がするが、スポーツ紙に連載され

解離性障害や統合失調症の事実が衝撃だったっけなぁ。(余談)

 

 それから、ドラマと同時にそれに関連したトーク番組があり、「イジメをなくすにはどう

したらいいか」と話し合いをしている場面があった。

 そこに、答える子供たちが居た。

「話しを聞いて“あげる”」「優しくして“あげる”」「困ってる人が居たら助けて“あげる”」

 見事に“あげる”の連発があり、「それはいいことに気が付いたね」と仕切る教師大人。

コメンテーターや司会のが、

「学校の先生は子供たちの話を“聞いてあげて”ください」「“受け止めてあげて”くだ

さい」と訴えていた。

 

 そこに、言いたいことがある。

話しは聞いて“あげる”のでなく、自分の意志と誇り責任に於いて“聞く”のだ。

 困っている人が居たら、助けるのは当たり前で、助けて“あげる”という上から目線

の考え方を正す事が、先ずは教育の基本だと私は思っている。

 小学校入学の説明会に行ったという人の話を聞いた。

「もー、寿玄夢さんが行ったら頭カンカンだよ。ああいうイッパイの人の前で話す人に

何時も話してるようなこと話して欲しい」とその人は言った。

そこでは「お母さん、子供さんの話を聞いて“あげて”下さいね。受け止めて“あげて”

下さいね。誉めて“あげて”下さい。見守って“あげて”下さい」のオンパレードで、

「子供たちから教えて“もらえます”自分が子供から育てて“もらえます”」の話が続い

たという。

「あげてだの、もらえるだの、毅然としたものがなくて気持ち悪いんだよ」と寿玄夢節

に慣れてしまったその人は言う。

 

 そうなんだな、話は聞くのであって、聞いてあげるもんじゃないと私は思う。

聞きたくなくても聞くべき時はちゃんと聞く。

それは、無理やり聞き出せということではない。

「今日、学校で何があったの?」と、子供が話し出すのを待たずに矢継ぎ早に聞き出そう

としている親を見ることがある。

 黙って待ってろ。と思う。

穏やかに料理をする母の傍らで「今日ね、学校でね」「うん」「あのね、〜ちゃんがね」

「うん」「先生に怒られたんだよ」「へぇ〜、どうして?」「それがね」

 子供は、ゆっくりだ(大人から見たらゆっくりに見える)自分のペースで進んで行く。

“先生、あのね”という本がある。穏やかなオーラでただ持っていると子供は(子供に

限らない)話しかけて来る。みんな、誰かに話したいんや。

 見守ってますよ。というパフォーマンスともとれるアピール親もよく見かける。

これは、「見守ってあげて下さい」連発の弊害なんじゃないかと思う。

 良いこと正しいと思う事は、大袈裟にしない、そっと行うのが良いと私は思う。

子供の教育(本人はそう思い込んでいる)を、周りにアピールするかのように実況中継

している親もよく見かけるが、その言葉は誰に向かって発しているんだ?と思う。

そういう人と話すと、人目が気になってならないと言う。子育てに自信がないと言い

出す。

思うんだけど、人目を気にせず、人に対する気遣いを持つと、心が楽になって落ち着

く気がする。

 

誉めてあげて下さい。って言うけど、何だかみんな大したことないことに誉めすぎだよ。

だから、誉められても上滑りで嬉しくないし実感がない。

子供は、誉められることに慣れて、そのうち誉められることに依存し「誉めて“くれた”」

「誉めて“ちょうだい”」と 誉められなければ、認められていないと自信が持てない

“誉めて誉めてコジキ”が出来上がる。

 

 誉める。ちゅうか認めるのはちゃんと頑張った時だけで、いや、時だけがいい。

誉めるのは水と同じ、求めて飲んだ時にこそ身心に沁み渡る。

 子育てに、時期がある。インディアンの教えで小学生は少年。

少年は、肌を離し、手を離し、目を離すな。の時期だ。

 青年になったら目を離し、心離すな。となるが、心は肌を離さない乳児から、手を離

さない幼児期を経て青年になっても繋がり育って行く。

 何時も同じであることは、同じでない。時が流れ状況に合わせて変わって行くことが、

変わらないこと。

あ〜、そんな歌があったな。

 

 イジメのない世界にしたい。と、みんな真剣に考えている。(かな?)と思う。

そこで出る意見が、上から目線の「〜して“あげる”」発想。

 そして、「先生(お母さん)は子供たちの話を聞いてあげて下さい」って誰かにお願い

発想。

 「国が悪いんだ」「学校が親がダメなんだ」という責任転嫁。

先ずは、自分の足元を見て自分が出来ることから始めたい。

 目の前のことをちゃんと見ようよ。と自分に思う。

講演会や誰かが言ったことじゃなくて、目の前にあることを見て聞いて自分の頭で考えて

決めて自分が行動する。

 そこで間違ったとしても、真剣に考えて行ったことは、それは教訓であって次に進む

道標となる。

 

<イジメがなくなる方法>

昔(子供の頃)から疑問だった「お友達をイッパイ作る」「仲間を作る」ことが良いと

いう考えが、やっぱり違うと思うようになった。

友達が居ることが悪いのではない。

友達を無理に作ろうとすることに疑問があるのだ。

仲間は、自分の道を歩いている時に隣を歩く人が仲間なのであって、無理に仲間に

しようとした時、間違いが起きる。

 友達も仲間もなる(なっていく)のであって、無理に作ろうとしなくていい気がする。

何故なら無理には無理が付いてくるからだ。

無理に仲間や友達にしようとすると物で釣ったり、本当はそう思っていないのに話しを

合わせたり、或いは脅し圧をかけて自分に合わせさせようとすることになる。

 そこに力の上下関係が出来た時、上のつもりの者も下になった感じの者も、その関係や

自分に、自信、信頼、敬意を持てない。

 自分を信じられない者は、力で支配するか、媚びて諂(へつら)う方法を取る。

自信がないから執着する。束縛する。

 

 つうことは、イジメをなくす方法は簡単なんじゃないかな。

○無理に、友達や仲間を作ろうとしない。

○ひとりでも楽める自分になる。

 

 とーころがだなぁ、そうなった時、同じような人が隣を歩いていたことに気が付くん

だなぁ。

 類は友を呼ぶってやつですかね。