母ちゃん

 

 “母べえ”という映画が流行っているらしい。

 

私、直子は東北に産まれ育った。兄二人に姉が一人居る末っ子だ。

父を早くに亡くして、私は、父の顔を知らない。

意地っ張りの母親は、再婚することもなく女手一つで4人の子供を育て上げた。

田畑はあるが、財産といって何もなく母は働き詰めの貧しい暮らしだった。

父親が死んだのは、私が乳飲み子の時だった。

それから母は、私を背負って畑に出た。野菜売りに出た。

 

雪の降る頃だった。2歳違いの姉は、兄達と家に残ることがあった。

そこで事件は起きた。

寒いだろうからと囲炉裏に火を熾して、寒いからと兄姉を家に残し、私を背負って母は

野菜売りに出かけたその日。

 姉が、囲炉裏に落ちた。

赤く燃える炭の中に手を入れてしまったのだ。

 その時の事は、誰の口からも語られず、どんな様子だったのかを私は知らない。

ただ、姉の右手はつやつやと固まっていた。

少し大きくなって手術をして指が離れた。

自分は野口英世だと姉は言った。

「頑張りやだけど意地っ張りで母ちゃんにそっくりだ」と、私が言うと

「おめえもな」と姉は言った。

姉は、母に泣き言を垂れたことはないが、仲良くも見えない。

大体が、私は母が誰かと仲良く楽しそうにしている姿を見たことがない。

私の思い出の中の母は、いつも黙々と働き、たまに口を開けば

「人に負けるな」「恥ずかしい真似をするな」「みっともない真似をするな」だった。

あんなに貧しかったのに、兄姉たちも私も、全員高校を出ている。

昭和25年産まれの私のクラスは、半分も高校に行かなかった、行けない時代だった。

兄妹みんな、新聞配達や牛乳配達、納豆や豆腐売りなど働きはしたが、高校に行けたと

いう事は有り難く、母に感謝している。

 

 姉は五十歳を過ぎた頃に離婚し、子供を連れて家を出た。

そして、経済的なこともあって、一人で暮らしている母の家に入った。

兄達は、兄嫁も含めてそれを暖かく喜んでいたが、母と姉には諍いが起きるように

なっていたらしい。

 甘えもでてきたのかもしれない。姉は母に恨みごとを言うようになっていたようだ。

そんなある日、そろそろ還暦を迎える姉の手に異変があり癌が見つかった。

 手術をすることになり、医者で最初に火傷をした時の様子を知りたいと言われた。

姉は、母にその時のことを聞いた。

 すると母は怒り出した。

「オメーは、何時まで、その話をひっぱり出す気なんだ」

 姉は、その時までそのことを聞いたことはなかった。

「何で、そんなに母ちゃんのこと責めんだ!」

「いや、お医者さんに聞かれたんだよ、その時のこと教えてよ」

「そんな昔のこと、とっくに忘れた。覚えてねぇ!」

それを聞いた姉は泣き、母と姉は喧嘩別れになった。

 

 私は東京に家庭を持って暮らしているが、姉が手術をするので、今、東北に来ている。

その話を聞いて、私は母に

「ねえ、母ちゃん、病院でその時の様子が知りたいっていうんだもの仕方ないでしょうよ、

本当にその時のこと忘れちゃったの?」と、聞いた。

 すると、急に顔を歪めた母が、

「忘れたことなんて…。 今まで、一度だってあるかい」と、唸るように言った。

それを聞いて、私は泣いた。

「その気持ち、手紙に書いてみな」と言うしか、私にはどうすることも出来なかった。

 母ちゃんは、私が東京に帰るという日に、黙って手紙を差し出した。

分厚い手紙だった。

 封は、閉じられていなかった。

中身を出してみると、便箋には何かがびっしりと書いてあった。

 それは、読み始めてすぐに姉への手紙だと分かった。

私は、便箋を封筒に戻して言った。

「分かった。お姉ちゃんに渡していくね」

 それから病院に寄って姉に封筒を渡し、帰りの列車へと向かった。

私は手紙を見なかった。見てはいけない気がした。

 

姉から電話があった。

「手紙、7枚もあったよ。字ぃ書くの嫌いな母ちゃんなのにねぇ」

母に良く似た口下手の姉は、そう言った。

 

 母べえという映画は見ていないが、きっと素晴らしい母親なのだろう。

私の母は、頑固で意固地、人とツルムって分かるかなぁ。

馴れ合うことを極端に嫌がり、人に負けることが大嫌い。

自分が間違っていたと気付いても正さず、謝らず、言葉がキツク紋切り型。

楽しく和やかに、やさしく話すなんてことはない。

私と母は、世の中の母と娘のように一緒に買い物すら行ったことがない。

物心ついてから母親にギュっとされた覚えもない。

 私は少し心を病んだことがある。

私は淋しかった。暖かい思いに浸りたかった。ギュっとされたかった。

 私には、一人娘が居る。彼女が産まれた時は嬉しかった。

これで、もう淋しくない。仲良く素敵な母と子になれると思った。

 でも、年頃になった彼女に私の思いを受け止める気はない。

「ベタベタしないで」「お母さんはオモイんだよ」「しつこくしないで」

「お母さんは面白いと思ってその話してるのかもしれないけど、アタシつまんないから」

 人はミンナ違うんだなぁ。

 

 地震で母親を失った子供が、犬を飼うという映画がある。

地震で母を失った兄妹、兄は母親を少しは覚えているが、妹にはその記憶が全くない。

「ねぇ、お兄ちゃん、お母さんってどういう人だったの?」妹は兄に何度も聞く。

妹は淋しい。淋しいという気持ちに気付いているのかいないのか、淋しい。

 ギュっとされたい。

その想いは、飼い始めた犬に向かう。

 犬をギュっと抱きしめることで、彼女の心に暖かいものが生まれているのを感じる。

愛しいなぁ。

 ギュっとされたくて、ギュっとしている幼い彼女がそこに居る。