鏡

 

 私は昔から、何故か人前で鏡を見るのが恥ずかしい。

それは、鏡に限らずショーウインドウのガラスでも同じで自分の姿を何かに映して見る。

というのが、恥ずかしい。

 見ている姿を見られるのが恥ずかしいのかな、イヤ、一人で居る時でもあんまり鏡を

見ることはないな。

 

 鏡といえばテレビで面白い実験をやっているのを観た。

それは、動物園で檻の中に鏡を置いてその動物の反応をみる。というものだった。

 そこで出た答えが、鏡があることで落ち着く動物と、嫌がる動物が居る。ということ

だった。

ペンギンなんかに至っては、鏡があると安心するのでわざわざ鏡を置くことがあるら

しい。

それが、トラになると鏡に映った自分の姿を見て仰天して跳び上がり、威嚇してみたり

檻の端の方を逃げ回ったりして、その姿には思わず吹き出してしまった。

 

 何故、そんなことになるのかというと、群れて生活する動物は鏡が置かれて仲間が増え

たように見えても危機感を感じないらしいのだ。

 まあ、サルくらい知能が高くなると新参者に対してボスが強さを確かめようとしたり、

駆け引きをしたり、と反応が違ってくるが、群れて行動している動物は鏡に映った自分の

姿を見てもトラほどびっくり仰天することはない。

 

 ナールホド。と感心してそれを観た。

 

 前々から、人間にも群れて行動するタイプの人“群れ型”としよう。

と、一人で行動するタイプの人“単独型”が居ると思ってきたからだ。

 群れ型は、調和を好む。

だから、歩調を乱す者、個性的だったり独自の感性や考えを持つ者を嫌う。

 それに比べて、一匹オオカミというか、まぁオオカミも群れて生活する動物だが、単独

型は、調和というものに重きを置かない。

 どちらかというと、自分の楽しみが優先で人の思惑には意識が行かない傾向がある。

 

 群れ型は、人目を気にする。その分気を遣ったりする。でも、目立ったり、表面的な

平和を乱すような者には集団で排除を行ったりする。

 人は、人に限らず、群れる動物というのは、何故群れるんだろうか。と考えて思い当

たったのが、力(色んな意味での)の弱いものほど群れるんじゃないか。ということだ。

 集団で群れていれば、敵(危険なもの)がやってきた時、誰か仲間がやっつけられて

いる間に自分は逃げることが出来る。

そこにはあえて自ら犠牲にするモノ(母性)が現れるが、その話になると長くなるので

止めておこう。

 

 では、単独型はどうか。

ある程度力があり、自分一人で戦う覚悟みたいなものがあるんじゃないだろうか。

 まぁ、場の空気が読めなくて仲間に入りたくても入れてもらえない。というパターンも

あるが。

 

 群れ型は、自分の意見を言わないことが多い。

私は、あるのに言わないんだと思っていたら、自分の感情や思考を出さないようにして

いたら、それがなくなってしまった人も居るようだ。ということが分かってきた。

 日本という国は、群れ型人間の集まりじゃないかと私は思っている。

自分の責任に於いて勉強したり思考したりして、自分の理念を固めていく。ということが

少ない気がする。

 事なかれ主義、寄らば大樹の陰、付和雷同し、長いモノには巻かれる日和見主義。は

強い傘の下で安心して平和に暮らしたいということの現れだ。

 

では、単独型はどうか。

自分で決めて自分で行うことを旨としているので、ある意味気持ちいいが、人に合わせる

ということをしない。というか“出来ない”人が多い。 

 それは、群れて行動する人が自分の意見を持たない。というか“持てない”のと同じで

どちらにもその能力が欠けているんじゃないだろうか。

そして、単独型は、敵が現れた時“どうするか”

そう、群れ型の場合は“どうなるか”と様子を窺(うかが)う。のに比べて、単独型は、

“どうするか”と自分主導となる。

 自分の責任に於いて、決断し行動することしか単独型に道はない。一人だから。

敵が来た時、勇敢果敢に戦うか、潔く撤退するか、それは本人がどう決断しどう行動

するか、その本人次第となる。

しかし、単独型の中に、群れの中に入って行って、その場を荒らす者が居る。

その時、群れ型は単独型に対して強い拒否反応を示すことになる。

 単独型が集団に向かないのは、自分自身さえもが敵だからかもしれない。

だから、鏡が嫌いなのかも。

群れの中にあるイケニエ(シッポ切り)の逃げと自己犠牲感覚、単独にある攻撃性と

ヒーロー感覚は、両方ともある面では人を助け、その反面、人を殺す。(見殺しも含めて)

 単独型が自己顕示欲でなく本当に社会を変えたいと思う気持ちがあるとしたら、

柔よく剛を制すで、太陽と北風のどっちになることが大事なのかを心に置く必要がある。

(と、よーく自分に言い聞かせる)

 

 群れ型と単独型、そのどちらが良いとか悪いとかの問題でなく、人は生まれつきなのか

育った環境なのか、はたまたその両方なのか、そのどちらかに分かれる。

 

 例えば買い物や食事をするのに、一人で出かけるなんて考えられない。という人と

誰かと一緒で気を使いながら行くなら行かない方がいい。という人が居る。

 皆さんお分かりのように、前者は群れ型で後者は単独型。

そこで大事なのは、『自分がどちらの型であるかを知る』ということじゃないかと思う。

 

 「何の為に?」って? シアワセに生きる為に。

自分が本当は何を求めているのかを知った時、初めて生き方を選ぶことが出来る。

 ゲイが自分をノンケだと思って生きている時、自分の本当の気持ちが分からないように

みんながやっているから自分もそうしたいんだろう。なんて思っていると、自分の本当の

気持ちに気付くことはない。

 よく聞く話が、幼稚園の子を持つ母親たちが、子供を送った後でお茶をするんだとさ。

そこで最初に断らないで行ってしまうと毎日のようにお茶に付き合うことになる。

 話のネタは何時も同じようなことで、噂話だったり、自慢話だったり、

(あー、早く家に帰って掃除や洗濯がしたい)と思ってもそんなこと言ったら

「あらっ、まだ終わってないの!」と言われそうで、仲間はずれになったらそこでどんな

ことを言われるかと考えるだけでも恐ろしくて、ズルズルとそこに居ることになる。

 

 そこに居ることに違和感を感じ、一人になりたいと強く思うのなら、その人は群れに

入ってはいるが、単独型かもしれない。

『女は女らしく、男は男らしく、友達を沢山作ってみんなで仲好くしましょう』という

抽象的な言葉に、人はどれだけ洗脳され縛られてきたんだろう。

 友達が居ないイコール人間失格的な見方を、私は自分にしてきたが、本当にそうだろ

うかと本気で考えたのは、今の仕事を始めた30歳になる頃、27年前だった。

それまでの仕事は公務員だった。

出る杭は打たれる、出る釘は打たれるで、余計なことはするな。という声なき声に、私は

ずっと縛られてきた。

 それは、自分にとってスゴイ苦痛だった。ということを後になって気が付いた。

57歳になる現在も、その頃の夢を時々見る。

夢は何時も、もうすぐここを辞めることが出来る、早く辞めて自由の身になって本当に

自分が求めている道を歩きたい。と切望しているものだ。

孤高の人になりたい。と思ってきたが、孤高ってのは、一人だけ抜きんで気高く生きる。

という意味らしい。が、抜きんでなくても気高くなくてもいいから、孤独を楽しみたいと

願っている。

人目を気にせず、自分が本当にしたいことをする為には、先ずは自分が本当にしたい

ことを見つけなければならないが、それは、小さなことでいいんじゃないかと思う。

家に帰って掃除がしたい。でも洗濯を干したいでも、テレビを観たいでも本を読みたい

でも絵が描きたいでも、そこからが始まりのような気がする。

いや、そこからしか、自分は始まらない気がする。

 

皆さんご承知だろうが、私は、一匹オオカミ、単独型の最たるもんだ。

一人で行動しても淋しくないというより、一人で行動することがすがすがしく、贅沢で

勿体ないくらいだ。

 風の音を聞き、野山を散策する。古本屋で立ち読みし本を選ぶ。

何かを考え書き物をする。メダカを観察する。本や漫画、新聞を読む。ヨーガをする。

瞑想をする。料理をする。

草を引き、土をいじる。掃除をする。書類の整理、まとめかた、縫物をする。

 そこに仕事があり、犬の散歩や孫の世話、親の用事がある。

シアワセだなぁ。

 

 何となく思った。

鏡で自分の姿をよく見る、見てると落ち着くという人は群れ型で、

鏡をあんまり見ない、見たいと思わないという人は単独型なんじゃないだろうか。

って。

 

 さーて、当たってますかね。