感覚・意識

 人の感覚は、皆同じだと思って疑わない人が多い。

しかし、この世に共感覚者(シネスシージア)とよばれる人がいる。

ものを食べると、指先に形を感じる。音を聞くと、色が見える。

10万人に一人というこの感覚を持つ人たちは、全く正常に暮らしており、その本人が

告白しない限り共感覚者かどうか見分ける方法はないという。

感覚というのは、主観的なもので他人には観察できないものだからだ。

科学は主観には立ち入らないという約束ができている。

つまり、科学的でない非科学的だということは、イコール文明的でないと判断される。

しかし、私は不思議を科学的、哲学的に考えてみたいと思い続けてきた。

 

「共感覚者の驚くべき日常」リチャード・E・シトーウィック著。1993年

神経科医の作者が、一人の共感覚者と出会う。

その脳の研究から“意識”の正体へと迫っていく。

自分の意志では回避できない不随意な感覚。

それと同時に写真記憶など特異な記憶能力を持つ者も少なくないという。

カンディンスキーやナボコフなど共感覚のある芸術家も多いと作者は言う。

 この本の中で、人が意識ある心として知っているものは、何が実在で真実かを決める

決裁者ではないというテーマに発展していく。

 リチャードの元に共感覚者が、次々と現れ事実を語ったのは、答えは一つではないと彼

が知る人であり、本物のリスペクトを持つ人だったからではないかと私は思う。

彼は「人の言葉を鵜呑みにするな、自分で見よ」を座右の銘にしている。

 

シャルルボネ症候群とは、正常な幻覚という意味だ。

統合失調症は病気であり幻覚幻聴があるが、シャルルボネ症候群の場合は病気ではない。

見えたものが調べてみると事実と符合することがある。

サヴァン症候群というのは、脳の欠落した部分を補おうとしてその他の部分が成長して

超人的なことを認識する症候群のことだ。

サヴァン症候群は生まれつきなどの知的障害に加えて聴覚や視覚障害などの重複障害で

ある場合が多い。

 私がテレビで見たサヴァン症候群の人は、知的障害の双子の老人で何年の何月何日と

言うと即座に曜日を言い当てる。

閏年(うるうどし)があってコンピューターでもそんなに早く曜日が分からないという

曜日を彼らは即座に言うのだ。

彼らは、1、3、7、11、13、といった素数を交代で言っていくという遊びを、よく

するのだという。

これも、コンピューターでも即座には出ない天文学的な数まで続くのだという。

音楽を即座に記憶する視覚障害の青年も居た。

 

眠れる預言者と呼ばれた“エドガー・ケーシー”のリーデングの中で

医者が直っていると診断しても痛みが続くことがあったり、

逆に痛い筈だといわれても痛みを感じない場面が出てくる。

人間の意識と感覚は、科学では解明出来ていないのだ。

 

 私の知っている人に生まれつき、この世に存在しない人が見える人がいる。

私も見えるのかとよく聞かれるが、私は見えない。

 光、それをオーラというらしいが、それが、見える人がいる。

病気の部分が、身体の中が見えるのかどうして分かるのか?分かる人がいる。

その人たちは、実際に私が知っている人で、人道的で理性的な信頼出来る人たちだ。

 私は、物理的でないニオイを感じることがある。

以前は、イヤなニオイの人に会うとゲッとなり、全身から力が抜けて落ち込んだり、

逆にカッと身体が熱くなって顔が真っ赤になったりした。

そういう時は、自分は赤面症なのだと言い訳してきた。

その私がゲッと思う人は、「お付き合いしてはいけない人?」で書いた。

 

人は、すぐに「普通そうでしょ」「常識でしょ」などと言うが、その度に私は普通とは

どういうことなのだろうと考え、そこで立ち止まってきた。

 殆どの人は、自分は普通であり皆そうなのだと思い込み、そう思うことで安心して生き

ているのではないかと思う。

 

 以前に東京の商社で会った人(当時45歳女性)と、私がその直前に行ったバリ島で

頻繁にデジャヴュ(既視体験)したという話になった。

 その女性は、

「凄いですねー、あたしはそんな不思議な目にあったことなんてないですよ。

あたしは、ごく普通の人間ですから」と言っていたが、

「あー、でもなくし物をして困っていると、オバアチャンが教えてくれるんですよ」と

言い出した。

どういうことかと聞いていると、彼女を可愛がってくれたオバアチャンは、10年以上前

に亡くなったのだが、彼女が何か見つからないで困っているとオバアチャンが現れてその

在り処を教えてくれるのだと言う。

 それこそ普通じゃねえべ!と私は心の中で叫びながら、どういう風に現れ教えてくれる

のかと聞いた。

「どういう風って、姿は見えないんだけど、隣に立って教えてくれるのよ。

それは間違いなくオバアチャンなのよ。

この間も大事な指輪が見つからなくって本当にこまっていたら、高校生になる息子が

いつものようにオバアチャンに教えてもらったらいいだろうって言うんですよ。

それで教えてもらって、箪笥の間から見つかったんだけど、

どうしてあんな所に入ってたのかしらねえ」って不思議なのは、あった場所じゃなくて

オバアチャンが教えてくれることでしょ!?と私は言いたかった。

 しかし、彼女にとってそのことは、当たり前のことで不思議でもなければ、まして怖い

ことなんかでは、全くないのだ。

 その女性は、ノンビリとしたあまり垢抜けてはいないが、優しいお母さんといった感じ

のノーマルな人だった。

 

 自分は特別の人間だと思っている人というのは、話していて疲れる。

ゲッ、私もそうかも。

 でも、自分は普通で、皆誰も自分と同じだと思い込んでいる人というのも、他人の気持

ちに踏み込んできたり、自分の考えを押し付けてくるから困る。

 そういう人は、自分の気持ちを「誰だってそうでしょ」と断定する。

そして、自分に理解出来ないことは、否定しようとして躍起になるのだ。

 

リチャードは、

人間原理の宇宙論に対する考え方で、人間は他の生きものを下等とは判断せず、

ちがうものとして受け入れる「我と汝」の姿勢を採用するといっている。

この姿勢は霊性(スピリチュアリティ)、霊的な感受性を反映しているのだと彼はいう。

 

 ウイリアム・ジェームズは、その法則に於いて

超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠が、

信じたくない人には否定するに十分な曖昧さが残るようになっている。と、述べる。