カレー誘拐事件

 

 あれは、長女が高校3年の夏だった。

夏休みも終わる頃、夏子は卒業の思い出旅行だといって友人たち3人と信州の方に出掛け

た日だった。

 エルは、夕方になると自分一匹で散歩をする犬だった。

まだ日が長いといっても7時を過ぎると夕闇が濃くなり、真っ黒いエルは見つけづらく

なる。

 店のシャッターを下ろす段になって、エルの姿が見えないことに気がついた私は家の裏

から縁台の下まで捜して回ったが、エルの姿はなかった。

 

 長女が小学2年生になった5月、2歳で我が家に来たエルは、12歳になっていた。

猫が歳を重ねると化け猫になるというが、犬も利口になって何処まで分かっているのか

化け犬みたいになる。

 牛乳が好きで「牛乳は何処かな?」と聞くと、サッと冷蔵庫の方を見て、私が行く

のを待ちきれず冷蔵庫の前に座っている。

 犬に牛乳は消化が悪いらしい。そこで、私は口牛乳と称して一度私が口に含み唾液と

温度を加えてから皿に出し舐めさせた。

 皿に出してから「これは、何だ」と聞くと、犬一倍食い意地の張っていたエルは

「フゥ、フゥー」と身を捩らんばかりに声を出していたが、ついに

「ギュー、ニュー」と言うようになった。

 あと「チョー、ダヮイ」も言うようになっていた。

それを塚石に話すと、軽蔑したような顔で私を見たが、実際に「ギュー、ニュー、

チョー、ダヮイ」を聞かせると

「そう言われれば、そう聞こえるような感じだね」と抜かした。

「そう言ってるだろうが、ヨーク聞いてみなよ」ともう一度聞かせると

「はいはい、分かりました」と何の感動もなかった。

 これだから、動物オンチは話が分からん。

エルは、忠実を絵に描いたような犬で、私が風呂に入ると、毎日必ず脱衣所で入浴する

私に背を向け、身じろぎもせずに座って待っていた。

 その後姿は、命を掛けてご主人様を守ってみせます。という覚悟がにじみ出ている。と

私には感じた。

 忙しい時は察知して寄り付かずジャマをせず、ちょっと暇だとかエルを撫でたいと

思った瞬間必ず傍に居て、自ら私の手を鼻で持ち上げたりした。

 呼んで来なかった試しがなかった。なのに、その日は呼んでも出てこない。

こーれは、どうしたことだと、心配になった。

心配で落ち着かず、家の周りをウロウロ探し回っていると、夏子から電話があった。

楽しそうな声に、エルが居なくなったことは言わず、楽しんでおいでとだけ告げた。

 間もなく夫は戻ったが、「仕方がないだろう、今日はもう諦めて明日また捜そう」と

家に入った。

 私は家に入ったり出たりを繰り返していたが、最後にもう一度と、家の西側にある水路

を覗いて回った。

 以前、そこに落ちて川上の方へ歩いていたことがあった。

その時は水がなかったのが幸いして、風の流れに乗って聞こえてきたエルの声で見つける

ことが出来た。

(あー、もっと気をつけていれば)という気持ちと、

私の持論である(自分が犬だったら不自由で長生きするよりも、自由でいたい)という

気持ちが交錯し、やっぱり仕方がない。と思った。

 水路の下の方へ行くと途中から二手の別れ、右に行くと溜(タメ)に着く。

そこは安全のためにかフェンスで囲まれている。

 左の方に行くと林の中に土管で続いていた。

林の入り口には、昔、そこで入水自殺した人が居たという塞がれた井戸があった。

「エルー、エルー」とちょっと泣き声になったり、誰かに聞かれたらマズイと小さな声で

呼んだり、エルに聞こえなくてはならないとちょっと大きな声を出したり、水路に沿って

夜中過ぎまで歩いた。

 後で考えるとちょっと怖い感じだが、その時は必死だった。

後に、その辺に幽霊みたいなモノが出るという噂を聞いたが、若しかして私の声と姿を

見た人が居たんじゃないかと思った。

 腹を減らした夫は、家から出たり入ったり落ち着かない私を尻目に近くの寿司屋に

出掛けた。

 忙しかったその頃、そこの寿司屋は私たちの台所になっていた。

 

  この続きは、次回。

    さて、エルは見つかるのでしょうか。