河合隼雄

 亜由美の友達が、鬱病になって3年になるのだという。

その人は、仲良しで依存の強かった母親を亡くしてから、更年期の時期と重なって心身の

状態をおかしくし、入退院をくりかえしていたが、また病院に入ることになった。

 家に居る時は、毎日布団に入ったまま何をするでもなくただ横になっているのだという。

その家族は、彼女のことをどう思っているのか分からないとその人は言う。

 その日、今から病院に入るという友達を送りに行って、亜由美はずっと我慢していた

気持ちが押さえきれなくなってしまったのだという。

それは、「しっかりしなさいよ」という言葉となって出た。

それは鬱の人には言ってはならない言葉だと知っていたのに…。と、亜由美は自分を責めた。

 

 私の知人が、8年前に鬱でこの世を去った。

その年の春に、「子供が一流大学に合格したの」と彼女はその子供と共に私の家を訪れた。

「オメデトウ」と言うと、「本当は、もっと上の学校を目指していたんだけどね」と

彼女が言ったのが引っかかった。

夏のゴルフにその人を誘おうと思った時、そのことを思い出し彼女を誘うのを止めた。

秋の終わり頃、その人は自ら命を絶った。

 その人は、頑張りやで教育熱心な人だった。

お互いの子が小学生の頃、仕事で忙しい彼女の子を私が預かったり、私の子が彼女の家に

泊めてもらったりした。

いつもほったらかしで学校でも遅れている私の子供たちに、食事の世話から勉強までを

彼女は、付きっ切りで面倒を見てくれた。

 帰宅した二人の子供は、感心して

「お母さん、〜ちゃんちは、凄いキレイに片付いていて、ご飯もいつも凄いんだよ。

勉強の教え方も上手で、お母さんみたいに面倒くさいからヤメタなんて言わないんだよ」

と言った後で「あー、お母さんがお母さんで良かったー」と口を揃えて言った。

彼女は、鬱になって家から出られなくなって、窓を閉め、布団に入ったきりで夏を

すごし秋の終わりに帰らぬ人となり、春以来一度も会わずに会えなくなった。

 私は、子どもを私物化し、自慢したり、ケナシて見せたりすることに嫌悪する。

それは、自分の中にその同じ要素が、多分にあるからだと思う。

彼女がそういう状態にあったことは、亡くなったことを聞くまで知らなかった。

あの夏に、彼女をゴルフに誘っていたら何かが変わっていたのだろうか、と思う。

 

 彼女の死から、私は彼女の気持ちを自分に置き換え、考え続けた。

その2年後、彼女の亡くなった歳に自分がなった時、彼女の3年忌を迎える春の彼岸

3月18日に私の中に何かが起き壊れ、彼岸の中日に救急車で運ばれた。

 そして、その直後に、鬱状態がやってきた。

それは、3ヶ月程で一応の収まりがついた。6月18日だった。

 

 河合隼雄の“こころの処方箋”という本がある。

そこに、「私はこころの専門家だから、人のこころが分かるだろうと言われる。

でも、人のこころは分かり得ない。

私が専門家であるという所以(ゆえん)は、人のこころは分り得ないということを

知っているということで、その上で知ろう、分ろうとして努力研究、勉強していること

である」というようなことが書かれてあった。

 そう、人のこころは、その本人にさえ本当には分かることはないのだと私も思う。

知人が亡くなった時、「あの人は自分に負けたのよ」と言う人がいた。

その言葉は、亡くなった人を思うあまりに出た言葉だったのだと思う。

 しかし、本当に人のこころ気持ちの総ては分からないと知ったら、決め付けることは

出来なくなると思う。

でも、分らないからといって仕方がないと諦めてしまったり、理解しようとする気持ち

を捨ててはならないのだと思う。

 本当には知ってはいないのだということを知った上で、分かろうとする気持ちを持った

時に真の理解への扉が開くんだと思う。

「知らなくてもいい!」と切り捨てた時、「どうせ分らない」と諦めた時、理解への扉は

閉じる。

 

河合氏の知人だったかが、臨床心理学で鬱病患者の治療にあたっていた時、

患者の一人が、理想が高く自分を許せず、でも、自分からは何一つ動こうとしない自殺

願望の患者が居たという。

その患者のカウンセリングにあったていた時、あまりの理不尽な態度に専門家である

にも係わらず心底腹を立ててしまい

「そんなに死にたいんなら、死んだらいいだろう!」と一喝してしまったという。

すると、その患者は気持ちが変わって、生きる気力が出て元気になった。

 その後、同じような患者と対面していて、その時のことを思い出し、同じことを言った。

そしてその結果、その患者は本当に命を絶ってしまったのだという。

 総てのことは、同じではない。

でも、同じことがあるとしたら、その時に目の前にある、起きていることを自分の目で

見て、聞いて、自分の気持ちに聞いて答えを出して行うということだと私は思う。

 

 私が子供のことで悩んでどうしようもなくなっていた時、夫と一緒に出した答えは、

「やるだけやって、そこからは手を出さない」だった。

私はその時「でも、あの子が死んだらどうしたらいいの?私は生きていけない」と言った。

すると夫は、「そうなったら諦めろ、そうなったらそれがあいつの運命だったんだ」と

言った。

精一杯考えて、こころを尽くして考えて出した答えを、覚悟を持って行うより道はない。

そこから先は、神でも仏でも、人間でも、信じて託すより道はない。

他力本願とは、生まれるのも生きるのも死ぬのも自分の力ではないように他力によって

生かされて、そして生きているのだということを識ることで。

他力にお任せするしかないと識って、総てをお任せした時に人は救われるのだという。

アーメンという言葉は、神の御心のままに、総てをお任せしますという意味だという。

 だからといって何も考えず、努力もしなくていいということでは決してない。

お釈迦様の“八正道”では、

正しく見て、聞いて、考え、話し、行うことで念定慧、念が生まれ定に入り智慧が授け

られる。ことだという。

 更に正しいとは何かと突き詰めて考えると、曇りのない目と耳、心で考え、行う。

そして、いつでもそれが本当に正しいとは限っていないということを知っているという

ことだと思う

 ソクラテスが「私は知らないことを知っている」と言ったように、

「本当にこれは正しいのだろうか?」という自分に対する問い掛けを忘れないという

ことこそが、正しいということなんじゃないかと私は思う。

 

何故くどくどとこういうことを書いているのかというと、「「しっかりしなさいよ!」と

言ってしまった」と後悔し自分を責めていた彼女に伝えたいのだ。

“これはこうでなくてはいけない”というキマリごとが、世の中にはある。

鬱の人には「がんばれ」とか「しっかりしろ」と言ってはならない。という

話はなるべく“聞いてあげて”自分はしゃべらない。と聞く。

それはそうかもしれない。私が鬱状態だった時、一切の音がダメだった。

本も読みたくない。テレビやニュースは最悪だった。

 私の様子を知る者は、腫れ物に触るように何も言わなかった。

それが、少し起きられるようになってきた時、誰も上がってこない二階の住まいに悪友

(自営業)が、ズカズカ上がりこんで来た。

 普通は、鬱の人の所にそういう風に上がりこみ、大きな声で話したりはしないだろう。

でも、その人によって、その時、私の気持ちが変わった気がするのだ。

 私は、夫の横で力なくテーブル寄り掛かっていた。

「麻子さん、何やってんだよ!

どーしちゃったんだよ!なんてカオしてんだよ!

俺は、前々から思ってたんだけど、あんたは、あんまりキレイに生きようとしすぎてん

じゃないのか?

あんまりキレイに生きようとすると、この世から離れていちゃうんだよ!

しっかりしろよ!!あんたが、死んじゃったらミンナどんなに困るか知ってんのか?!」

 その声は、私の心に響いた。

涙が出た。

彼は、押しが強くて悪態を吐(つ)く男だ。

一緒に呑んでいると失礼なムカツクことを言われて泣きそうになって、何度

「もうアイツとは、一緒に呑まない」と夫に宣言したことか。

それを聞いた夫は、「あんたといい勝負なんじゃねえの?」と毎回言った。

 私は、無礼であることが親しさの表れだと思っている人が嫌いだった。

 

 思えば私がおかしくなる前兆は、半年前にも起きていた。

その時も、悪友(サラリーマン、役員)が突然、部下を連れて現れた。

 そいつは、死にそうな人が透き通って見えるらしい。

勝手に人の部屋に入ってきたヤツは、最近、会社の社長が自殺をした話を始めた。

経営に困っていた社長は生きる気力がなくなっていてその一週間前にヤツが会った時、

後ろの見本帳が透き通って見えたんだと言い出した。

「それで、ワタシ(営業用語でワタシと言うが似合わねー)得意のゴルフの話で社長の鼻

へし折ってやったんですよ。そしたら、社長、怒った怒った」

失礼なヤツだな、と私は思った。

「そしたらですね。透き通っていたのがしっかりしてきたんですよ。

顔、赤くして怒って、ワシもゴルフやってやろうって気になったら後ろの棚が見えなく

なったんですよ」

「だけど、せっかくワタシがカツ入れてやったのに、帰り際に振り返ったら社長、また

透き通ってやんの。あーこりゃダメだって思ったね。そしたらその1週間後ですよ。

自殺しちゃったの…」

 その日、疲れていた私は(その頃から疲れは慢性的になっていた)ヤツと話している

のが面倒だった。

早く帰んねえかなぁーと思っていたが、何時ものように口げんかになり追い返した。

 その夜、彼の奥さんから電話が入った。

私は殆どの女の人とは、常識的にしか付き合えないと思っている。

「何時も主人がお世話になりまして」と最初は、儀式的な会話をしていたが、彼女は

私の話しが通じる人だと感じた。

その時、どんなに彼が不躾で失礼だったかということを彼女に言った。

「本当にすみません。どんなに主人は失礼な人か分かっています。

でも、麻子さんに会いにいった後の主人は、子どもに返ったみたいに嬉しそうで元気に

なって、何をやらかしてきたんだろうって心配しながら、私まで嬉しくなってしまうん

ですよ。

今日も「一発やっつけてきたで!」って言うのを聞いて、ホントに心配してたんです」

奥さんは承知していた。

 でも、私とヤツとの関係はそれだけではない。

ヤツが帰った後の私は、必ず怒って息巻いてツカちゃんに愚痴をこぼす。

しかし、怒りはあるがそれだけではない何かが二人の間にはある気がする。

そして、奥さんと心を開き話すことで、その時の彼には、悩みとジレンマがあること

を知った。

 

その半年後に、私自身がおかしくなった時、彼らの言葉を思い出していた。

「怒ったって、少々ズルイことしたっていいじゃないか、麻子さんはいい人になろうと

し過ぎだよ」

「ワタシ死にそうな人が分かるんですけど、麻子さんも危ないですからね。ホラ!

後ろが見える。ホレ!」

その時、その悪ふざけのような脅かしが、何時ものように笑えず本気で怒った。

その前から、馴れ馴れしく人の領域に土足で入り込んでくるような彼の態度と言葉に

本当に腹が立つことがあった私は、

「もう帰れ!あんたの顔、見たくないから、暫く来るな!」と怒鳴った。

彼は「おー、怖い怖い、ボクも透き通ったら怖いから逃げちゃおう」と捨て台詞を吐いて

帰って行った。

半年後に、別の悪友が来て「しっかりしろよ!麻子さん。

あんた怒っちゃいけないとか、〜やっちゃいけないとか、自分を縛りすぎて生きられなく

なっちゃてんじゃないのか?!」と言われた時、ヤツの言葉を思い出した。

ヤツらは、最低なやつだ。

人の(私の)嫌がることばっかりして、気持ちを逆なでするようなことばっかり言う。

卑怯な言い方をして私を怒らせ、人の話しは聞かず押さえ込むように自分の話ばっかり

する。

 やつらの奥さんはタイヘンだと思う。私は絶対に嫌だ。向こうも嫌だろうが。

でも、私はやつらが好きなことにも気が付いていた。

 ちょっと話は逸れるが、子供の時から私には男友達が必ず居たし、今も居る。

母親に言わせると、「お前の友達には、ロクな男は一人もいない」ということだが、

美容師のケンちゃんみたいなゲイ、定職を持たない男、行方不明、放浪願望、離婚、破産、

知的障害(障害はないけど)、病気で亡くなったのが、ロクちゃん、斉藤さん、アキオさん、

考えてみると、ナルホドだ。

 でも、世間的な見栄えでなく、世間の常識マニュアル、キマリ事に囚われない見方と

行動が出来る人達だ。

 そいつらとケンカしたりふざけあったりしながら、私は自分が一番囚われた人間で

あることを知った。

 

その時の状態や目の前にいる相手を見ないで、こうすると良いと聞いたからと教科書

通りに行おうとする人は多い。

その時の状況や相手をちゃんと見て考えることで“ひとりよがり”になってはならない

ということは基本だが、大事なのは方法でなく、心に響くってことだと思う。

 

河合隼雄氏は、京大卒業後、アメリカ留学を経て、スイスのユング研究所に入り、

日本で初めてのユング派分析家の臨床心理学者となる。

 彼は、6人兄弟の5男で兄の一人は、霊長類学者の河合雅雄、高校の教師だった20代

の頃、「生徒の悩みに応えるには心理学が必要」と痛感して京大大学院に入り直して

それまで殆ど知られていなかったユング派心理療法の第一人者となったのだ。

 対話と人間関係を重視したカウンセリング手法を広め、臨床心理士の教育、育成分野で先駆的役割を果たしてきた。

青少年の問題について積極的に発言するなど社会問題についての関心も強く、1995年

の阪神大震災時には、被災した子供たちの心のケアの重要性をいち早く指摘し、相次ぐ

少年犯罪に心を痛め、道徳用の副教材「心のノート」にも係わる。

1928年6月23日生まれの彼は、58歳から念願だったフルートの奏者となる。

2000年11月6日に、文化庁長官になった彼が言った。

「なぜ、この大役をお受けしたかというと、今の日本は精神的に病んでいると思う。

国が病むことによって人も病む、国を健全に立て直すことで、一人一人の心も健全に

なって欲しいという思いから、関係ないと思うかもしれないが、臨床心理学の見地から

この国を患者と見立てて治療していきたい」ってなことを言っていたと記憶する。

駄洒落が好きで、講演会では聴衆を笑わせることが大好きだったそうだ。

2007年1月17日付で、文化庁長官の任期は満了した。

河合氏の著書には、子どもの心についてのものも多い。

大人になっても“子どものこころ”を含んでいるこころを考えていきたいと彼は、いう。

彼は、自然と触れて体験するということの必要不可欠な、大切さを語る。

その彼が、2006年8月17日に脳血栓で倒れた。

その頃から子どもの自殺が頻発し、連鎖のように続いた。

自殺予告によって国からの発表もあったが、的外れな発言ばかりだった。

その苦しみは、すぐ身近に存在することであるのに、まるで遠い世界、テレビの中や

ドラマの中だけにあって大人たちの殆どは、傍観者であるかのようだった。

河合氏が倒れた頃から、子供たちがタイヘンなことになってきている気がするのは、

河合贔屓(びいき)である私の思い込みだろうか?

 

 何故これを書いたかというと、鬱病の人が多い。

と言ってる自分も2001年の症状は、鬱状態にガッチリと押え付けられていた。

 鬱病は、人事ではない、何時自分がなるかわからないし、何時家族や友人がなるか

分らない。

現に元気印の前向きな私が、キッカケは不思議なきっと普通には説明しても理解不可能

な事であったが、それから鬱状態に入った。

 気持ちが、死というか生きる恐怖に取り付かれ食事が喉を通らず、体重が40キロを

割った。

これといった具体的な悩みはないのに、気持ちが、変な所に行ってしまう。

 死神に取り付かれたといったらピッタリするようなどうしようもない状態は、今考えて

も生命の危機だった。

 知人が命を絶ってから、どうしてそういうことになったの?どういう気持ちだったの?

と問いかけ続け自分がそうなった。

私のなったものが、彼女と同じ状態かどうかは、分からない。

 しかし、私の好きな言葉に、冷暖自知(れいだんじち)という言葉がある。

冷たいも暖かいも自らが味わなければ、本当に知る、分かることはないという。

あの追い詰められ、行き場のない、居場所のない地獄の気持ちは、味わった者でなけ

れば分からないと思う。

 亡くなった知人はこういうことだったのかと、分った気がした時、自分の力や意思では

どうしようもないことがあるのだと思い知らされた。

自分は消えて無くなりたいのに、死への恐怖にガンジガラメになり身動きがとれなく

なっていた。

その時に自分が何を味わったのかは、またの機会に書くとして、というのはあまり

リアルに表現してそこへ行く人が居たら、私が耐えられない。

 キッカケは人によっていろいろあるだろう、身内との別れや自分の生きがいを失うこと

からなる人は多い。

 でも、体調が悪くなり不安がやってくる。

体調が悪いから不安なのか、不安だから体調がわるくなるのか、具合が悪いから食べら

れないのか、食べないから元気がなくなって具合が悪くなるのか、どっちが先なのか分

からない。

 どうしてこんなことになったのか?と考えて考えて、考え続けて、答えが出た。

どうしてこうなったかを考えるより、これからどうしたらいいかを考えよう。

 出来ないことを考えて自分を責めることより、出来ることを一つやったらいい。

出来ないことをやろうとして、出来ることをやっていなかったのではないかと思った。

その時、私が自分で出来ることを見つけ、行ったことを、書き出してみる。

@     朝は起きて朝日を浴びる。お日様に向かって手をかざす。

A     日中は起きて適度な運動をする。

B     運動は、歩く、ラジオ体操、グニャングニャン体操、ストレッチ、ヨーガなど。

C     心を鎮め無我の時間を持つ。草引き、雑巾掛け、瞑想。

D     3度の食事をきちんと取る。でも、無理強いはしない。

E     水分をたっぷり取る。朝に飲んだ梅干湯が、良かった。

F     感情的にならないように心がける。人を非難しない。自分を責めない。考えすぎない。

G     気を楽に持つ。

H     夜は、起きていないで寝る。

寝る前は気持ちをリラックスさせていい気持ちになるようにする。

I     楽しみを見つける。メダカ、縫い物、犬を飼った。

J     無理をしない。自分をだらしなく甘やかさない。でも、大事に大切にする。

K     食事は大切で、シソや三つ葉、ミョウガなど香りの物で食欲を刺激する。

 更年期も手伝っていると思われたので、納豆などの大豆食品、身体を温める生姜、

山芋、牛蒡などの精のつく食品、トマト、人参、かぼちゃ、ピーマンなど色の濃い野菜

の料理。などを自分で作って、夫に以前より家事をやるようになったと言われた。

もっと色々やったんだけど忘れてしまった。

何処かにその時のメモがある筈なのだが、見つかったらここに補足していくことにしよう。

L     笑顔を作る。最初は鏡を見るのが怖かった。

お化けのような表情のないやせ細った自分が、怖かった。でも、心は動かなくても

笑顔を作ることから始めた。

M     また、おかしくなるのではないかと疑心暗鬼になると腹が堅くなり息をしなくなって

いた。気持ちを紛らわすために、好きな音楽を聴いたり歌を歌うと、そこに気持ちが

行かなくなる。身体の筋を痛気持ち良い程度に伸ばすのも効果がある。

N     こうでなくてはいけないという考えを、自分がやりたいと思えばこんなことが出来る

という考え方に変える。

 

兎に角、そういう時は、何より生きていることが嫌にならないように自分を騙し騙し、

なだめながら、ヤケッパチにならないように、時が経つのをじっと待つしかないように

思う。

 悪あがきせずに、その人によって乗り越える方法は千差万別なんじゃないかと思う。

私の場合は病院とクスリはどうしても嫌だった。だから、自分の努力で出来ることをして

それでどうなるかが勝負だった。

結果を求めず、思い通りにならなくても絶望せず、ただその時に出来ることを一つする。

変なプライドは捨てて、自分流の自然体で、その時を楽しむくらいの気持ちになれたら

どうにかなっていくと思う。

 そして、出来ることをやったら、後は託すことだ。

 私が何を言いたいのか分らない人も居るかもしれないけど、分る人には分かる気がする。

まあ、それでいいって気がする。

 鬱に入っている人も、そういう家族や友達が居る人も、他の人のことを、

他人事や人事だと思わないで欲しいと思う。

でも、それを自分の中に引っ張り込むことは、決して親切ではないと思うんだ。

先ずは、自分を持ってシャンとする。そこから始まる気がする。

 

 私はこういう話をよくする。

それを聞いて、「そういうことを話しちゃって、恥ずかしくないの?」と言う人が居る。

便所教育でも、私がウンチを漏らした話をすると「そんなこと話さないで」と言う人が

居る。

 いいんだ、みっともない恥知らずに何でも喋ると言われても、この話を聞いて参考に

なる人が居ると信じている。

 どーぞ、私を踏み台にして元気になる道を見つけてください。

でもなぁ、私の話を笑ったりバカする人って好きじゃない。なーんちって。

 

 

追伸

2007年、7月19日 河合隼雄さん死去

明晰な頭脳と素養、気さくで温厚な人柄、天才的な聞き上手、きめ細かな心遣い。

彼が終生のテーマにしていたのが、「日本人の心」だった。

古来の日本人の精神性を見直し、西洋の近代的精神と融合させることで

「日本人はもっと元気を取り戻せる」説き続けた。

 

本来の日本人は、真面目で律儀(りちぎ)、義理堅くて人情が厚く、ユーモアもある。

明治維新のペリー来航の時期の写真があるが、風呂なんぞは男女の間に仕切りがなかった。

裸はそう恥ずかしいものではなかったらしい。

 その頃、日本人の顔の何割かは疱瘡の痕で、デコボコだった。

それでも堂々と胸を張って生きていた。

 河合さんは、最近の日本人の心が空しく淋しくなっていることに心を痛めていた。

本当に心の底から、人の幸せを願う人だった。

 彼が脳血栓で倒れたとき、私は社会の心の拠り所が無くなった気がした。

 

痒い所に手が届く人と、届かない人がいる。

届く人というのは、本当にその人の身になって考える人だ。

 届かない人というのは、自分の都合や面子が優先で、一番大事に考えるべきことを横に

置いてしまう人だ。

 河合さんは、痒い所に手が届く人だった。