柳家 小三治

 

 私が幼い頃(1歳何ヶ月)、母親が死に掛かり祖父母の家に預けられていた時期があった。

その後も、祖父母の家が居心地が良くて、よく泊まっていた。

私が学校に上がる前の祖父母の家に、テレビはなくラジオが流れていた。

暗くなる頃にはゴハンが済ませられ、祖父の布団に入って、祖父と一緒にラジオを聞いた。

 祖父が好きだったのは広沢寅蔵の浪曲、講談や浪花節、落語などだった。

小学校に入っていない私も浪曲や落語が大好きで、楽しみに聞いた。

 時々、何度も聞いたものを私が諳(そら)んじたりすると、祖父が相好を崩して喜ん

だことを思い出す。

 落語は、小学校に入ってからも大人になった今も好きだが、最近はテレビで放映する

ことが少なくなった。

 

 NHKで柳家小三治が出るとあったので観た。

プロの仕事とかいう番組で、落語をしている所は少なかったが、ナルホドと思うことが

沢山あった。

 彼は、カタイ家に生まれるが、面白いこと人を笑わせることが好きで高校で落妍(落語

研究クラブ)に入る。落語選手権だったかの7週連続優勝とかで、その才能が開花される。

その後、家族の反対を押し切って“柳家小さん”(五代目、1995年落語家として初の

人間国宝)の弟子に入る。

そして、秀でた才能と努力で世にもてはやされるようになる。

 

ある日、小さんが小三治の落語を見に来た。

見終わって一言「お前の落語は、面白くねえなぁ」とつぶやくように言って床屋に行った。

小三治は、何処が面白くないのかとも、どうしたらいいのかも全く聞く気になれな

かったという。

そんな甘いことが許される雰囲気は、そこには微塵(みじん)もなかった。

 

それから小三治は、面白いということについて考え始めたという。

面白いって何だろう?笑いって何だろう?落語とは何だろう?

 その頃の彼に、私は暗いものを感じていたことを思い出した。

 それから40年、現在の彼は、リュウマチの痛みと戦いながら年間200本の落語の

舞台に立つっていうか座っている。

 そこで、自分の落語が良かったと思えるのは年に1回くらいだという。

彼は背伸びをしないでやるということを、知ったという。

今日持っていることで勝負をすればいい。

毎日の生き方が大事で、それが芸に出る。

 分かったのは、落語を面白くするには“面白くしようとしないこと”だった。

小手先の芸でなく、一番下の基本から物事を見ることが、大事だと分かった。

病気になって良かった。と思う。痛みがあって良かったんだ。人ってありがたい。と

彼は言った。

 客に媚びない芸がしたい。客のタメにやってるんじゃないと思う反面

客が来てくれる、楽しみにしてくれてる。

客へ感謝の気持ちと、媚びのない芸。面白くしたいからこそ、面白くしようとしない。

というその狭間でまだ折り合いがつかないんだそうだ。

 小さく小さく、受けなくていいから自分を出す。

落語は笑わせるもんではなく、笑ってしまうもの。

 

 途中で茂木健一郎氏に、小三治が質問した。

「アタシ、落語のネタは百七、八拾はやったと思うんですけど、今舞台でやるのは五、

六拾なんですよね。ここでやらない百二十は、どうしたらいいんでしょうね。っていうか

どうなっちゃうんでしょうね」

茂木は「表に出ている裏側にたくさんの経験があって、それは直接見えてはこないけど

それが表に出ているモノを支えているんじゃないですか?」と言った。

 

 茂木が小三治をプロだと称賛した時、

「人から凄いとか、プロだって言われる人って、自分ではそういう事、どうでもいいん

じゃないですかね?今を生きることに夢中になってて」と彼は言った。

 

 感謝の気持ちと、媚びない芸。面白くしたいからこそ、面白くしようとしない。

その狭間で、まだ折り合いが付いていないんだという彼は、青年だった。