言葉へのコダワリ

 

<因果応報>

 毎回言っているが、美咲の所には色んな人がやって来る。

きっと、普通の(自分は普通だと思って生きている)人の耳には届いてこない事が、何の

因果か、美咲の耳に入ることになる。

 ところで、因果(いんが)というと、「悪いめぐりあわせ」という意味だけのように思い

がちだが、本来の意味は「原因と結果」というだけのことだ。

 因果応報(いんがおうほう)も「人間の行いの善悪に応じて必ずその報いがあらわれる

ということ」と辞書にある。

 だったら、因果応報というのは、良いことでも悪いことでもないじゃないか。と美咲は

思う。

 こういった言葉に対してのコダワリがハンパないのだ、美咲は。

 

 ということで、そのコダワリを聞いてくれ。

 

<縁>

例えば、縁(えん)。

 相談に来た人が若い独身だと必ずといっていい程

「良縁に恵まれるにはどうしたらいいですか?」と聞いてくる。

そこで美咲は、以前にドクターコパが言っていたことにその答えを見た。という話をする。

 

 縁に良縁も悪縁もない。

ただ、そこに縁というきっかけが結ばれるというだけのことだ。

その時に大事なのは、その相手がどうかということよりその本人自身の生き方。

計算高く世間体を気にして見てくれを大事に生きる人は、そういう人を選ぶ。

 人の幸せより自分の幸せが大事で、人を踏みつけにする人。

好きな人には良い顔を見せて、自分の得にならない嫌いな魅力を感じない人にはじゃけん

な態度をとる。という生き方をしている人が、心ある人に本当に愛されるだろうか。

 愛には尊敬が含まれると美咲は思っている。

 

 感情に振り回され、やりたい放題に生きて「だって我慢出来ないんだもーん」という人

が家族に愛されているというなら、それは家族の諦め同情と哀れみなんじゃないかと美咲

は思う。

 ダメで不完全だと思っても労(いたわ)りと敬意を持つ。

それは相手に望むのでなく自分が行うこと。

 縁を、良縁にするか悪縁になるかは、その人の生き方に掛かって来る。

と美咲は思う。

 そう、良縁は“する”んであって、悪縁は“なる”だ。

その分かれ目は、そこに自分の意志と信念があるかどうか。とそれを行うかどうか。

 決まったら行動しなくちゃ。

 

<絆>

 3,11の震災があってから、絆(きずな)という言葉が使われ、最初は軽く流して

聞いていたが、大安売りのように矢鱈と使われるのが鼻についてきた。

美咲は、本当に絆の意味を分かっているのかよと思う。

絆とは本来「犬、馬、鷹など動物を繋ぎとめる綱」であって「絆(ほだ)し」とは

馬の脚を繋ぐ縄のこと。足かせや手かせ、自由を束縛するもの。のこと。

絆(ほだ)す。というのも繋ぎとめる。と同時に束縛する。ということ。

情に絆される。のなんか、相手も縛って自分も縛って、きゃー雁字搦(がんじがら)め。

 それは、絶つにしのびない恩愛、離れがたい情実。ということでもある。

 

捕まえて捕虜(ほりょ)にすることを、「ダホす」って言うのなんかは「ホダす」を

引っくり返した言葉だと聞いた。

 

 何事につけ、人のイメージで言葉が色付けされることがイヤだと美咲は思う。

そこには、その言葉があるというだけで、因果応報を恐ろしいと思う必要はない。

 絆を必要以上に美化することも卑下することもせず、ただその意味を知り、

自分がどの生き方を選ぶかを決めた時、初めて自分の人生が始まる。

と美咲は思う。

 

 というような話を、美咲の所にやってきた人と長々と話す。

 

だけどね。

美咲は、思い込みの勘違いってやつも多くて、例えば完璧の下を壁って書いていたり

画竜点睛を欠くべからずの点睛を晴で覚えていたり、袖すり合うも他生の縁に、

袖振り合うという言い方があると知らずに間違っていると騒いだりしてきた。

 きっと、こうやって美咲のコダワリを書いていても、彼女の思い込みや勘違いがあった

りするんじゃないかな。

 

 でも、私が美咲を大好きでいいなと思うのは、

何時でも精一杯、全力投球で答えを見つけようとしている。

 そして、間違っているかもしれない。という恐れを持っている。

「危ないかもと気を付けていれば大丈夫さ、恐れを持たなくなった時が危ない」と美咲は

言う。

 そして、「恐れることで前進することを止めてはいけない」と。

 

 前進とは、行うことだけが前進ではない。

止めなければならないことを、実行に移すのも、前進。