言霊

 

 以前の友人は男が多かったが、最近は女が集まって来るようになった。

そこで、私は何故女が嫌いだったかを思い出した。

女のよくいう台詞が、「よくやってるわねぇ、えらいわ」だ。

それが、嫌なのだ。何をえらそうに上からモノ言ってるんだ!とムカッとする。

「あなたは、〜だから出来るのよ」ってのもある。

じゃあ、〜じゃなかったら出来ないのか?

あなたは自分が、〜でないことを自分がやらないことの言い訳にし、免罪符にしたいのか?

それとも、私が〜であることを羨んでいるのか?

そこに、自分の幸せ、幸運に感謝しなさいという声なき声を感じ、私の努力を認めまい

とするものを感じる。

 

そういう人は優位に立つ言い方が上手いというのか、姑息というのか。

「あら、それは〜ですよ、分からなかったんですかぁ?」

「あらぁ〜、あなたみたいな人でも分からないことがあるんですかぁ?」

「あなたも少しは分かっているんじゃないですか!」

野球の解説をする男性で、選手がいいプレーをするたびに、

「〜は、いいんだけどねえー」を連発する人がいた。

私にはそれが、どうしても偉そうに見えて気分が悪かった。

「じゃあ、何が悪いんだ!」と突っ込みたくなる。

いいプレーをしたら「〜がいいね!」と言えば、かれの心の捻じくれが伸びる気がする。

 

「え!、そんなこと私はとっくに知ってましたよ」

「これ位だったら、あなたにでも出来るんじゃない?」

「〜しなきゃぁ、ダメよ」

「いいから黙って、〜しなさい!これは、あなたのタメに言ってるのよ」

 彼らは何故、そのような話し方をするのか。

あなたの為に言ってあげているのよという大義名分を使って、優位に立ちたいのだろうか。

 彼らには、自分の領域以外のことに価値を認めない者が多い。

「そんなことして、何が面白いの?」

「それをやって、どういういいことが、あるの?」

「所詮自己満足の世界じゃないか!」と、人に理解されない、認められない、

見返りがないなどの形による結果が得られないものを、否定する。

 彼らには、他人の満足に思いを馳せる柔らかさもイマジネーションもない。

 

そして、人を気分悪くさせる言い方を熟知していて、駆使するのだ。

「あーあ、やっぱりね。そうなると思ってた」という言い方は、人の不幸を望み

そうなったことを喜んでいるように感じられる。

 

 彼女(彼)らは、誰かに「こう言われた」「こうされた」という被害者的話し方と

同時に、「やってあげた」「言ってあげた」の恩着せの話し方が交錯する。

また、「やってくれない」「言ってくれない」という物乞い、乞食の話し方も加わり、

「〜だから」という不正癒着の思考回路が、拍車をかける。

この「〜だから」の諦め的言い訳は、人の足を引っ張ることにも有効である。

「〜だから出来ない」「〜だから出来たのよ」の方式で

「あなたは、ご主人が理解のある人だから、そんなに自由でいられるのよ。

書き物なんかしていられるのよ」がある。

書き物“なんか”!?

「才能があるから、“だから”書けるのよ」と言う人も多い。

才能があるから“書ける”のではない書きたいコトがあるから“書いているのだ。

書き物は才能ではないと私は思う。

問題は、その人に書きたいことが発信したいことがあるかどうか、描きたいコトがある

かどうか、そして、それを行うかどうかだ。

「でも、あなたには才能がある」と、それは誉めているつもりなのか言う人がいる。

そう私に才能があるとしたら、どんなに文章が下手でも(自分でそれを分かっているのに)

嫌にならず、めげず、何十年も見返りを求めず書いていることだろうか。

書く、描くことは面白いが命を縮めるほど消耗する。

でも私は、子供の時から描いてきた。学生の時も、勤めをしている時も描いてきた。

時間は、何時だって誰にも同じに流れている。時間は止まらない。

時間が、時を止めて私を裏切ることはないが、私が時間を操作操ることは出来ない。

その時間をモノにするかどうかは、自分次第なのだ。

 

今現在、私に自由な時間があるから描けるんだという人がいるが、

いや、時間が描かせてくれているんではない。才能が描かせてくれているのでもない。

自分の中の描きたい伝えたい思いが爆発しあふれ出す苦しみと格闘し、何とか形に

しているだけなのだ、とはいえそれは私の無上の喜びである。

 

 五回ほど講演会で“しゃべった”ことがある。

I小学校、S幼稚園、K幼稚園、Т小学校、K中学校。

それを私は、何故引き受けたか。伝えたいことがあるからだ。

それが、“言霊”だ。

私は、変わっていると言われることがあるが、自分では何が変わっているのかよく分か

らない。自分しか生きていないから、自分的には、総てが当たり前のことなのだ。

 何が変わっていると言われるかというと、コダワリが強いことと、人前で話すことや

こうして書いていることが、チョー快感だということだろうか。

 伝えたいという思いは、私を恥ずかしいだの緊張するなどという次元に留まることを

許さない。

 このホームページも殆ど書き下ろしで誤字脱字、その他勉強不足によるもどかしさが

あることは、自分が一番知っているつもりだ。

 しかし、時は止まらないのだ、今やりたいことを、今やらなくてどうしよう。

それは、総ての人がそうだろう。

今を生きなくて、何時になったら自分の思いを解き放つのだ。

 

 講演会のテーマはその時々で手作りが主だったり、お茶の話だったりしたが、

私の中でのテーマは“言霊”だった。

 私は、今のこの世の中、母親が成長することで変わると思う。

世の中が腐ることによって母親が腐り、母親が腐っていくことによって世の中が腐る。

 そして、何故母親がキーワードかというと、家庭と子どもという人質と宝物によって

嫌も応もなく、変わらないわけにいかないからだ。    ヘッヘッ、(悪魔の笑い)

 

お母さん、あなたは子どもから好かれていますか?旦那から好かれていますか?

家族から本当に信頼されていますか?

キリストは「愛される人におなりなさい」と言ったというが、あなたは自分が家族から

信頼され、愛されていると思いますか?

 

 「この人が母親じゃあ、子どもも旦那も不幸だなー」と思う人は多い。

この前書いた“看護婦”の安田なんかが、そのいい例だ。

 自分のメガネに適ったに都合のいい人は大事にするが、気に入らない人には意地悪を

する。

 ああ、あの安田は田中が挨拶しても、そっぽ向いて挨拶しないんだそうだ。

好き嫌いで態度を変えて、感情をあらわにする。

感情が豊かであるのと、感情の起伏が激しいのは全く違う。

でもって、感情は伝えるものであって、ぶつけるものじゃない。

 

この人は嫌だなぁと思う人がいる。

奉仕作業で怠け、無駄話、噂話に終始している。

自分の家族を私物化していて、失礼に貶(けな)したり、自慢したりする。

自分の感情をコントロールする気がなく、支配されている。そのクセ人を支配したがる。

その時々の自分の都合によって、物事の善悪、良し悪しの判断が変わる。一貫性がない。

支配的、独断的、計算高い、エコヒイキをする。

自分の話ばかりで人の話に興味がない。自分の価値観が総てだと思っている。

そういう人がこれを読んだら

「何、偉そうに言ってるのよ。あなただってそうじゃない!

あなたと私の何処が違うっていうのよ」とおっしゃることだろう。

 

 私は、人間は大きく分けて、自分の好き嫌いを入れずに、

人が喜ぶことを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとして受け止める人と、

嫌いな人が喜ぶと面白くない、嫌いな人の不幸は蜜の味の人に分かれると思っている。

 その後者の人を、嫌な人だと私は感じ、出来ればお付き合いしたくないと思っている。

 

 何かにつけ“難しい”と人は言うが、難しくしているんじゃなだろうか?と思う。

 “玉石混淆(ぎょくせきこんこう)せず”という言葉がある。

玉と石は、別物なのだ、ごちゃ混ぜにしてはいけない。ということだ。

 物事の区別が出来ない人が、差別を行うように、石と玉の区別がつかない人が、

物事を難しくする。

“痘痕(あばた)もエクボ”なんて諺があるが、好きになると痘痕(疱瘡の傷跡)も

エクボのように勘違いすることをいうが、痘痕は痘痕で、エクボはエクボだ。

それを分かっていながら好きであることが、現(うつつ)を抜かしていない愛だと

私は思う。

現(うつつ)とは現実。現在の事実。

現実から目を背け、誤魔化し、誤魔化していることに気づかないでいようとする事は、

何時か必ず歪(ひずみ)がくる。

玉石を混淆していることには、いろいろある。

差別と区別は混淆しやすい。愛することと甘やかすことも。

反省と後悔。謙虚であることと自己否定なども…。

慎み深い、奥ゆかしいことと、縄張り意識の秘密主義も違う場所に位置している。

天真爛漫と不躾、慎重と神経質なこと、などなど。

そういったことを紐解いていくと、色んなことが簡単になっていく気がする。

 

 講演会で「リラックスして聞いてください」と言って“しりとり”のような話をする。

私は一見怖く見えるみたいだが、下ネタっぽい話をした途端、聴衆の顔が一気に解ける。

すると、周りの人と話し始めるのだ。

そこで「リラックスとルーズは違いますよね」と言うと、また、緊張が走り恥ずかしそう

な顔になる。

 しかし、その事をきちんと反省しないと、時過ぎてまた話し出したり、

「人に恥をかかせて!」と、逆恨みしたりすることになる。

本当に恥ずかしいのは、事実を受け止めようとしないことと、反省しないことだ。

「言い方が悪い。もっと違う言い方があるでしょう?!」は、責任転嫁、事実を見ようと

しない人の常套手段だ。

真剣であることと深刻になることは違う。

何事も「ユーモアを忘れず、気にするな、気をつけろ」が私の合言葉だ。

気にする必要はない。気を付ければいいだけのことだ。

 

 母親たちに、「子どもに信頼され好かれるコツを教えようか?」と言うと食いついてくる。

ヨーシ、そうでなければいけない。

何事も望まなければ手に入らない。

 

そのコツとは、話し方だ。

本当はその人の“ひととなり”生き方が言葉に現れる。

だから、話し方だけ変えてもその人の生き方は変わらないと思ってきた。

ところが、話し方を変えることによって、生き方が変わることに気が付いたのだ。

そして、周りの人間も一緒に変わる。成長する。

           キャーッホー、それは素晴しい!   パチパチパチ(拍手)

 

 人間関係というのは、距離間とリスペクト(敬意)と、風通しだと思う。

何回も書いてきたが、汝の隣人を愛しなさい。じゃなくて“お大切にしなさい”だ。

 その人を嫌いでも、愛せなくても仕方がない。

どんなに努力しても(努力は必要)、感情はコントロール不可能な場合がある。

しかし、大切にすることは出来る。

 

エコヒイキをする先生が一番嫌われる。

それは何故か、自分が贔屓(ひいき)されないからその人を嫌いなのではない。

その人(先生)が、自分の感情を乗り越えることが出来ない、抑えようとしない未熟な

危険な人物だから嫌いなのだ。

 自分の親がそういう人だったら、子どもはどんなに悲しいだろう。

悲しい親になってはならない。

でも自分自身が、感情をコントロール出来ない人間だった場合、話し方を変えれば何か

が変わる。

大体が、自分の欠点を受け止められた時点でもう変わっているが…。

 

例えば、

決め付け押さえつけの「それは、〜ですよ」「ゼッタイ〜よ」「〜の方がいいわよ」を

「それは、〜なんじゃないかな」「私は、〜だと思うな」「〜だと聞いたよ」といった

自分の考えや感情、知識を伝えるだけに止める、断定しない相手を押さえつけない話し方

に変える。

 これは、相手に自分を押し付けない領域を守るコツである。

 

 感情はぶつけるものでなく伝えるべきもの。

「どーして〜なのよ!お願いだから〜してチョーダイ!」という言い方は、一見頼んでい

るようだが、自分の都合好みを相手に押し付け、支配しようとしているだけだ。

「いいから黙っていうこと聞け!」は、支配以外のナニモノでもない。

 じゃあ、どう変えたらいいか。

「今、私は〜だと感じている。あなたには、〜して欲しいと思っている」と伝える。

そこまでが自分の領域で、自分が、望んでいることを知った相手が、どうするかは相手の

領域なのである。

 

「〜してくれた」「〜してあげた」「〜してくれない」は、「〜した」とするとスッキリする。

 

そして、話し方のコツとしては、

話しは面白く。自慢話をしない。個人名を出さない。無理強いしない。

自分を正当化するために人を悪者にしない。

話を捏造(ねつぞう)しない。基本的にウソを言わない。事実を捻じ曲げない。

憶測で話さない。

相手によって態度や意見を変えない。

他人(わが子、親、家族も他人)の領域に踏み込まない。決め付けない。

人の口を借りない。

決め付けない。押し付けない。

やっつけることを目的にしない。脅し、威圧、支配を目的としない。などかなぁ。

 

まあ、相手の言っていることを知ろうとする気持ちを持てば、コツなんて関係ないんだ

けどねえ。

“思い込み”でも書いたけど、「自分の思っていることは、自分がそう思っているだけの

ことであって、他の人も同じに思い、感じるわけではない」ということを先ずは、肝に銘

じて欲しい。

「感じていることも、思っていることも、人はそれぞれみんな違うんだ」ということを

認識した上で、相手の気持ちを知ろうとする気持ちをみんなが持ったら、この世の中は

どんなに生きやすくなるだろう。

ソクラテスも“無知の知”って言ってたよなぁ。「私は、知らないことを知っている」っ

て。

皆、自分以外の人のことも知ってると思うところから間違いが始まってるんだよなぁ。

自分のことでさえも本当には知らないのに…。

 

 昔、言葉には魂があって力があったそうな。

そんでもって、言霊(ことだま)と言ったそうな。

 言霊は心から発し、心に届いた。そこにウソは存在しなかった。

ところが、心が二つに分かれ出した。本音と建前に。

言霊は枝葉のように分かれ、言葉となった。

 プラトンは“饗宴”で、昔人間は二つで一つだったが、神の怒りに触れ別々に引き裂か

れ世界にばら撒かれ、淋しくて一生その相方を捜し続けるのだ。と書いたように

 心無い言葉を使う人間に怒った神は、沢山の言葉で人間を撹乱(かくらん)し、

世界中にばら撒いたんだそうだ。

神は、人に孤独を与えた。だから、共感の喜びが生まれた。

そして、通じないもどかしさが、心を繋ぐようになった。

パンドラの箱から恐れ、恐怖、悲しみ、嫉妬、怒りの苦悩が飛び出し空っぽになったと

思われたその箱の底に、希望の光が現れたように…。

 

「はじめに言葉ありき」と聖書にある。

言葉によって人を救うことが出来るが、殺すことも出来る。

 話すことは、思いを放つ、離すからきているともいう。

聞くは、気来るからきているともいう。

 人と人の間を行き交うもの、言葉の魂「言霊」。その、言葉で話す。

 

話すことは、戦い。

戦う相手は、誰でもない自分自心。

自分の感情をコントロールし、欲と戦う。

 そして、喜びにするのだ。

 

JS・バッハは、音楽は「心から発して、心に還る」と言った。

総てのことは、心から発して心に還る。

そう、言葉もまた…。