骨折

 

 昭和39年、私が小学校4年生の春だった。

何度も書いているが、三度のメシより本好きの私がその頃楽しみにしていたのが、学研と

科学、学習という月間誌で、そのうちの1冊を選んで毎月届いていた。

 その年は学習でそれが届いたその日、先生たちの集まりがあるとかで午前中授業に

なった。

下校口に集まった子供たちの群れから離れた私は、みんなに気付かれないように学校

に戻った。

 人気のない西校舎に行った私は、暖かい日差しを浴びながら黒い板塀に寄り掛かって

学習を読んだ。

私にとって初めて出会う本は、何といっていいか分からない程嬉しい楽しい宝物だ。

それは、50歳を越えた今でも全く変わらないワクワクする喜びだ。

 当時は、私に自分の部屋はなく、何をするのでも母親の監視の目を感じた。

どういう訳だか、私が周りが見えなくなる程熱中していると母は私に話し掛けてきた。

 そして、返事をしないと怒って読んでいる本を投げ捨てたり破ったりした。

 

 家に帰ると本を読めないと思った私は、学校に残って読んでから帰宅することにした。

私は、美味しいご馳走を誰にも邪魔されることなくユックリと味わうように本を読んだ。

 何度も読んで家に帰ることにしたのは、4時近くなっていたと思う。

山と畑に囲まれた誰も通っていない砂利道、鳥の声が聞こえ、蝶々が飛んでいる。

草花を摘んで何かを作ったり粘土山の粘土を採ったり、私は“フラフラ”と歩く自由

な子供だった。って、今も変わっていないけど。

 

 4年生からの授業でソロバンが始まった。

ソロバンの話も面白いんだけど、その話は次回にすることにして、ソロバンは母が作っ

た細い袋に入れられランドセルの横にぶら下がっていた。

 家の横は道路で、その横は家よりも高い土手になっていてその上も道路だった。

上の道路から細く作られた道を降りると我が家の前の道に出る。

 土手の上に来たら、もう目を瞑(つぶ)っていても家に戻れるくらいで、家に着いた

も同然だった。

 私は足元も見ずに細い道を降りて行った。

ちょっと曲がったスロープのような道は、滑らないように、雨で流されて崩れないように、

所々に丸太で押さえられ、その丸太がずれないように棒杭で止められていた。

 一瞬のことだった。

ソロバンの袋が足に絡まった私は、一直線に下に滑り落ちた。

 よく覚えていないが、とっさの身を守ろうとしたのだろう、左肘(ひだりひじ)を

突き出し、棒杭に当たって止まったらしい。

 気が付くと左肘(ひじ)の所から腕が、身体の反対側に直角に曲がっていた。

起き上がったけれど腰が抜けるような恐怖と痛み?(痺れていて感覚はなかった気がする)

で、“フラフラ”と家に戻った。

「おかーちゃーん」と言う私の声が地獄の底から聞こえたようで、母はゾッとしたという。

濡れ縁の前に立つ私は真っ青で、(幽霊になって帰って来た)と、母は思ったという。

とっさに保険証を探したが、引き出しの中を見ても見えず、大体が近所の接骨院で

保険証などその日に持っていかなくても大丈夫なのに母はパニックになっていた。

 歩いて10分程の接骨院に、私は母の後をついて歩いて行った。

あまりの痛みに抱いてもらうこともオブってもらうことも出来なかった。

 途中で畑の人や近所の人と出会う。

「ヒャー」と驚きの声を聞くと、恐怖に気が付き気を失いそうになるが、倒れるわけ

にはいかなかった。

“フラフラ”になりながら接骨院に着いた。(フラフラ、3回目)

後は、もう訳が分からず治療する台に腰掛けてしまったり、麻酔もなしで押さえつけら

れて折れた腕を反対に戻され、石膏で固められた。よく漏らさなかったもんだ。

 

あーれは、確実に私の人生で苦しかった事のナンバー3に入る。

痛いのは、それでオワリではなかった。

骨がツイテ固まってから、リハビリという腕の曲げ伸ばしが3ヶ月続いた。

こーれが、痛い。痛いなんてもんじゃない!

 毎朝学校に行く前に接骨院に行ってリハビリするんだが、「イタイ!イタイ!」と私は

暴れ、「あんまり騒いで恥ずかしいから一人で行け!」と間もなく母に見放された。

 そこのオバチャンって人が、小さい頃に柿ノ木から落ちて骨折して接骨院に通っていて

見よう見真似で直し方を覚えてしまったという人で、その頃は資格がなかったという噂

だったが、病院でも治らないものを治してしまう天才だという人だった。

 

 私が小学校に上がる前に、祖母に連れられて墓参りに行ってそこでオシッコをしたか

横の階段で転んだかで「そういうことをするとバチが当たる」と言われた。

 そして、親戚の家に寄ってそこの広縁に干して重ねてあった布団から飛び降りて遊んで

いたら肩の骨が抜けた。

 その時も、そこの接骨院のオバチャンに直してもらったが、治療している間中ずっと

「バチが当たっちゃったーよー」と私は泣いて騒いだという。

 その頃の私は疳(かん)の虫が起きていて、オバチャンに“ムシ”と呼ばれていたが、

小学4年生になった私は、よく泣くので、泣き虫のまた「ムシ」と呼ばれることになった。

 何故お母ちゃんが、恥ずかしいと言って付いてこなくなったかというと、忘れもしない

小学2年生のカツエちゃんという女の子が、私と同じ腕の骨折でリハビリのため通院し

ていた。

 ところが、その子は全く泣かない。

キッと唇をかみ締め、顔を赤くして泣き言を言わない。終わると礼を言ってさっさと帰る。

 私みたいにミンナにからかわれてヘラヘラしているような子ではなかった。

一人で治療に来ているその子を見た母は、私の不甲斐なさに涙が出たという。

 

 大体が、オバチャンが悪い。

「ムシ、来たのか?今日も泣くのか?」と隠れるように入っていっても、必ず何か言っ

てくる。

「今日は、30回な」と言いながら、「15回、15回、15回」と途中で回が進まな

かったり、「30回、オワーリ」と言いながらオマケを付ける。

だ、もんで「ムシ、アリガトウは?」って言われたって、礼なんぞ言いたくない。

 オバチャンがそういう風だから、毎日通っている人たちも私に何か言ってくる。

励ましてくれる人も居たが、大体がふざけて面白がっているとみた。

 考えてみると、私みたいな子が居たらからかいたくもなるだろう。

入って行く時は泣きべそで声もなく、「今日も泣くのか?」と聞かれると「分かんない」と

消え入るような声で言っていた子供が、終わった途端元気になって

「ウソツキ!30回って言ったのにゴマカシタっぺ!」

「オバチャンは数が数えられねえのか!」などと言い、

「ムシ、明日も待ってるぞ」と言われると

「明日は来ないよ」などと調子にのって言い返す。

それを見ていた大人は、「来た時とは違う子供みたいだね」と言った。

 でも、ちょっとミンナに可愛がられているような気はした。

オバチャンが「ムシ、先にやらせてもらいな」と言うとミンナ「先にやっていいよ」と

順番を譲ってくれた。

でも、学校は遅れたってというか遅れた方がいいし、イヤなことは先延ばしにしたい

私だった。

最後の頃まで騒いだ気がする。騒ぐのがクセになってしまったみたいで、オバチャンに

「もう、そんなに痛くねえはずだが、ホントに痛いのか?」と聞かれ

「あれ?そんなに痛くねえわ」と言ったらミンナに笑われた。

 もうオワリだという日、「あー、良かった」という私に

「ムシが来なくなったら淋しくなる」とオバチャンやミンナが言った。

 

 大人になってから、オバチャンが働きすぎて体中の油が切れて亡くなったと母から

聞いた。    

もう一回、会いたかったなぁ。   オバチャン。