骨折2

 

 ホントウに、あのリハビリは痛かった。

4年生の私は痩せチビで28キロだったが、リハビリが始まってから夜になると

(あー、明日の朝もアレをやるのか)と思うだけで食欲がなくなり24キロまで痩せた。

 接骨院のオバチャンは、酢と小麦粉を練ったようなギブスが取れると、更に細くなっ

た私の左腕を暖かい手で包んで暖めてから曲げ伸ばしをした。

オバチャンの暖かい手は「痛い!」と言って暴れる私を掴んで離さず、固まった腕を

動かした。

 アレはやり過ぎたんじゃねえかと思うんだけど、今現在私の腕は右手より左手の方が

肩に付くくらいよく曲がる。

 そして、手を伸ばすと、左手の肘の部分が右手より太い。

 

 骨折が完治した頃に、問題が起きた。

当時、学生は安全会というのに加入させられた。今もかな?

それは、半強制みたいな感じで、一年に一回何百円かのお金を掛け捨てで払うと学校

や登下校時に起きた事故や怪我などに保険が下りる仕組みになっていた。

 で、私の腕の骨折も下校時に起きたので安全会からお金が出るということで母親が

学校に手続きをした。

 ところが、その日は午前中授業だったのに帰った時間がオカシイということで問題に

なった。

そりゃそうだ、学校に残って本を読んでいたんだもの。

全く、私ってヤツはどうしようもない子供だ。

でも担任の先生が何とか帳尻を合わせて、お金が下りるようにしてくれた。

アリガタイことだ。その上お見舞いに立派な表紙の“若草物語”の本を呉れた。

嬉しくて面白くて何度読んだことだろう。

 白いパンツが似合うキレイな先生だった。

 

 でも、恩知らずなことを承知で書いてしまう。

その頃、読書表というのがあって壁に貼られた名簿の横に本を読む度にシールが貰え

そこに貼った。

 毎日、本を読まないことのない私はどんどんシールが溜まった。

紙が足りなくなり、横に継ぎ足してシールが貼られた。

 言葉遣い表というのもあって、悪い言葉を使ったらそれもシールが貼られた。

言い訳だと思われるかもしれないが、私はその頃からナマリは悪い言葉だとは思ってい

なかった。バカだとかテメーなんていうのは悪いと思うが、“だっぺ”の何処が悪いんだ、

と逆に腹が立っていた。

 みんな私がナマリの言葉を口にする度に面白がって先生に言いつけシールは、継ぎ足

してどんどん貼られていった。

 忘れ物表というのもあって、ホントに表が好きな人だ。

もう、お分かりだろう、ダントツでシールが貼られていった。

 

 そんな時、道徳の時間に先生が、

「図書室にこんな本があるんですが、読んだ人はいるかな?」と言って、今でも忘れない

家に帰った子供がランドセルを玄関に放り投げて遊びに出掛ける、というような話をした。

 私はその頃、図書室の本を殆ど読んでいた。

先生が読むのだろうか、婦人公論がちょっと隠して置いてあってそれも読んでいた。

イヤラシイことが書いてあってちょっとドキドキして読んだ。

 それはさておき、図書室にある本なら読んだハズだ、と私は思った。

周りの友達も一斉に私を見ている。

 でも、その内容には覚えがない。

でも、図書室にあるというなら読んだハズだ。

 私はちょっとテレながら頭を掻くような感じで手をあげた。

その瞬間、「今手をあげた子はウソツキです。今のお話は先生が作ったお話です」と先生は

言った。

 その時、初めて死にたいと思った、消えてなくなりたいと思った。

その後は本を読んでもシールを貰いに行かなくなった。

その頃、トムソーヤの冒険が大好きだったが、トムが自分の死んだ時のことを空想して

甘い感傷にうっとりするシーンに共感した。

 ルナアルの書いたニンジン色の髪の少年や次郎物語の次郎の不安や淋しさもすっかり

自分だった。

私の淋しさは、昔も今も人と居たい淋しさではなく、愛されていない排除と共感出来

ないことへの淋しさだったような気がする。

 ありがたいことに書きモノをしてここに載せるようになった頃から、淋しさが消えた。

 

 ヒョウキンでヒネクレモノの私は、そのまま大人になった気がする。

当時の先生は大変だったろう。って、迷惑を掛けたのに言う権利なし!

 でも、私にとってはとてもいい勉強だった。

あれからウソを付かなくなった。自信のないことは、断定しないと決めた。

そのお陰で助かったことがどれだけあるか。

 

 大人になってこんな私に子供が出来た。

次女が生まれる前だから、長女が2歳位だったと思う。

 この長女が反抗期で行くのがイヤダとか、帰るのがイヤダとよくごねた。

それも、忙しい時に限って。

 仕方がないから長女の手を持って引っ張る。

すると、手が抜ける。

 一度抜けると抜け癖がつくのか、子供の関節っていうのは、食い込みが浅いらしくて

簡単に抜ける。

 長女の時は、接骨院に連れて行った。

そして、次女が生まれ2歳になった頃、保育所に向かえに行くと片手で片手を押さえて

じっとしていた。

 長女の時も治すつもりになれば、治せたと思う。

でも、素人がやってはいけないと思って我慢していた。

 しかし、二人の子持ち、共働きの忙しさは半端じゃない。

その日、接骨院に行って待っている気にはどうしてもなれなかった。

「ちょっと見せて」と手の平を見るように開いて肘をクルリと回すとポチっと簡単に

入った。

 ちゃんと入っているかどうか、何回か肘を回してみる。

次女はそれまで痛かったもので逃げようとしたが、もうすっかり何でもないので不思議

そうだった。

 それからも何回かはずれ、いけないと思いながら治してしまった。

 

 知人達と花見に行った。

そこで、看護婦をしている村井の子どもの腕が抜け、今から山を降りて病院に行かなく

ては、という騒ぎになった。

「村山さん、看護婦さんなのに治せないの?」と私が聞くと

「治せないわよ、私内科よ」と村山は言った。

「私、自分の子だったら治しちゃうんだけど、人の子はなぁ」

「えっ、治せるの?」

「治せるっていうか、一応入れられるけど、人の子は怖いなぁ」

「お願い、やって、やって」

「でもなぁ」

「大丈夫だよ、私が責任持つから」

渋る私を追い立てるように村山は子供を押し付けてきた。

 泣いている子をこれから病院に連れて行くのも可哀想で、

「ちょっと、おててみ−せて」と抜けている手を引いて開いてクルリと回した。

ポチっと入った。

 子供は泣いて手を引こうとしたが、その次には回されても痛くないのでキョトンと

している。

「わー、麻子さん天才!」と村山は喜んだが、

「私は素人だからね。絶対に病院に見せてね」と私は何度も念を押した。

 そして、後日「まさか、病院に見せたんでしょうね」と言うと、

「えへへ」と村山は頭を掻いた。

 私は、もう二度とそういうことはやらないつもりでいる。

 だけど、困っている人を助けることは気持ちいい。もう、やらないけど。

 

接骨のオバチャンは、70代で亡くなったが、亡くなる直前まで困った人が来ると治し

続け、休む暇も惜しんで治し続け、疲れが溜まってやせ細り、体中の油が切れて亡くな

ったんだという。

 すごい人だったんだね。    オバチャン。