航太

 航太という名前は、五年前に死んだ航太の父ちゃんが付けた。

「人が生まれてそれから生きていくってことは、海に乗り出す、航海が始まるってことだ。

男は太く生きていくんもんだ」って航太が生まれたときに父ちゃんが言ったという話は、

母ちゃんから何度聞かされてきたことか。

 父ちゃんは、航太が学校に上がる前に冬のしけで帰らぬ人となった。

母ちゃんは それから一人で頑張ってきた。

 航太は、学校でよく臭いと言われる。

(しかたねえべよ、魚売って 魚食って生活してんだもんよ。)と航太は思う。

この港町に新しい会社が出来始めて、よそ者が増えて、地元の者よりよそ者の方が多く

なった時に、学校は大きくきれいになったけど、昔の学校と違っちまった。と母ちゃんが

言う。

航太は、最初(はな)っから今の学校しか知らないから、何がどう変わったのか判ら

ない。

でも、なんだか面白くないことが多い気がして、ムカムカするのは本当だ。

 

クラスのみんなは、航太のことを臭いとかきたないって言う。

だけど腹が立っても手を出したら負けだ。母ちゃんと約束したんだ。

つまらないケンカはしないって、強い人間は小さな事で争わないんだ。

ボーリョクは、心の弱い人間の使うもんだ。

 でもこの間、遅れていた集金袋を出した時はホントに腹が立った。

集金係りのやつが中身を調べて先生の所に持って行くんだけど、お札のニオイを嗅いで 

「わー 、これ魚臭い!」って大きな声で言ったんだ。

そしたら、みんな笑って、どれどれって一緒にニオイを嗅ぐやつもいた。

チッキショー、お前らな、あのお金稼ぐ為に母ちゃんがどんなに朝早くから働いてるか

知んねえべ。

前の時に先生が「学校に持ってくるお金にまで気を使って 松下さんのお母さんは素敵

なお母さんね」って言っているのを聞いた。

松下さんのお母さんは何かの先生をやっていて集金袋の中のお金はいつもピン札らしい。

何言ってんだ!おれの母ちゃんのお札は臭くっても、きれいな、涙が出るくらい

きれいなお金だ。

 

最近 また嫌なことがあった。

学校の前に教会の人たちが来て声を張り上げて

「さあ みなさん神を信じましょう!神はいらっしゃいます!」って言ってたんだけど

(当たり前だろうよ、神様はいるに決まってるべよ。

 神様はどこにもいるんだ。 自分の中にもいる。

それを信じなかったら、ちゃんと頑張れねえべよ)と、航太は思った。

紙芝居なんかも見せながら「神は、神を信じる人を救うんだ」って言うんだ。

「じゃあ信じないとどうなるのか」って航太が聞いたら 救われないって言うんだ。

なーに言ってんだか、神様は誰でも救うんだよ。

それも弱くて駄目な人から救うんだって、母ちゃん言ってたもん。

それで神様は救う人がいっぱいで大変なんだから、航太は自分の力で頑張れよって

いっつも言われるんだ。

神様はすがるもんじゃなくて、信じるもんだって母ちゃんは言う。

だから、先ずは自分の足で立てって。

神様はどこにでもいる、自分の中にもいる。

誰が分からなくても自分がそれでいいと思ったら、それでいいんだ.って。

出来ないことを無理してしなくても、出来ることを心を込めてやれば、それだけでいい

んだって、そしていいことは自慢しないでこっそりやるのがカッコイイんだって。

 きょーかいの人たちは この頃、毎朝学校の前に来てるんだ。

いい年した大人が仕事もしないで、なーにやってんだか!? 全く、あきれっちゃうよ。

うちの母ちゃんが、あんなことしてたらごはんも食べられないし、

おれも学校に来られなくなっちゃうよ。

 

その時、大人たちに混じって小さな女の子がいるのを航太は見つけた。

おとなしそうな女の人と手をつないでだ女の子は、寒そうに肩をすくめ、すみの方に

立っていたが、急にぐずり始めた。

女の人は、女の子に何か言っていたが、女の子は段々怒りだし泣きながら両手を振り

回して暴れ出した。

 すると女の人は、女の子の前に座って両肩をつかんで静かな声で言った。

「従順におなりなさい」

それを聞いて、航太は何だか気持ちが悪くなった。

そして思った。

(おれの母ちゃんだったら黙ってぶっとばすね、母ちゃんは滅多に怒んないけど、

 怒ったらすごいよ、「ター!」って一発、腹ん中から声出すだけで、おれの中の怒り虫は

地べたに這いつくばっちゃうね。

でも その後、すごくスッキリするんだぜ。

あの女の子の怒り虫は「ジュージュンにおなりなさい」って静かに言われて、治まりが

つくんだろうか?)と航太は思ったんだ。

人のことをカワイソウって言っちゃいけないって、母ちゃんは言うけど、

航太はその女の子が、カワイソウな気がした。

航太の母ちゃんは、前に学校に来た後で何だかとっても怒っていたが、それからあんま

り学校に来なくなった。

大体が、学校に来た後の母ちゃんは、いつも機嫌が悪くなるから、来ないことは、

航太にとっては、ありがたいことだ。

なんで その時母ちゃんが腹を立てていたのか、母ちゃんと隣のおばちゃんが仕事を

しながら話してるのを聞いて、航太は知っている。

 その日の学校の父兄会で、いろんな話が出たらしい、でも父ちゃんを亡くして必死な

母ちゃんにとっては、どれもこれも違う次元の話だったらしい。

 そして、きわめつけは担任の女先生の話だったらしい。

「夕飯のしたくをしていて、揚げ物をしている時に子供が話しかけてきたらどうしますか

?」って先生は聞いたらしい。

「へー どうするんだい?」って隣のおばちゃんが聞いた。

「そういう時は、火を止めて、子供の方を向いて、座って子供の目線になって、子供の話

を聞くんだとさ」手を動かしながら、一言ずつ区切りながら母ちゃんが答えた。

「ふーん、そうかい」っておばちゃんは言った。

「ごはんのしたくをする時間もない人間の目線は、分かんねえべなあ そのせんせは…」

 おばちゃんは 先生をせんせと言う。

「腹いっぱい、美味しいものを食べてる人から、がつがつ食べてはいけませんって言われ

たって、腹減って食うもんがない人には、無理な話だろうって…」と、母ちゃんが言うと

おばちゃんが「あのせんせ、自分の親と一緒に暮らしてて、洗濯もご飯のしたくもみんな

親がやってるって話だよ」って言った。

母ちゃんは「ふーん」って言ったきりだった。

 

 母ちゃんは、毎日よくやってる。

それは、おれが一番よく知ってる。

朝はおれが起きる前に市場へ行く。それから一回帰ってきておれと一緒にご飯を食べて、

また仕事に出かけるんだ。

夜に洗濯や掃除をする、お風呂は一番の極楽なんだそうだ。

連絡帳も書こうとすると眠っちまう有様で、何か書いたとしても、油の火を止めて、

座って子供の話を聞きましょうって先生に、母ちゃんの話は通じないだろうな。と航太は

思った。

「そんなもんだよ、世の中は…」って、おばちゃんが言った。

航太は、先生とジュウジュンにおなりなさいの女の人がダブった。

 

 航太の住む港には、猫がいっぱい棲んでいる。

カモメが飛んでくる。

母ちゃんがいて、友達がいて、魚が美味しい。