クイモノ

 

「あなたは人の不幸をクイモノにして、自分の肥やしにする人なのよ!」

と言った人が居た。

 それは、三十年近く前のことで、何故それを鮮明に覚えているかというと、その言葉が

私の心から離れず長いこと自問自答することになったからだ。

 

 その人の言葉に

「そうなのかな?」と言うと

「そうなのかな、じゃないわよ!そうなのよ!

いっつも分かったふうな事ばっかり言って、キレイ事だけじゃ済まないのよ!」

「でも、物事には芯になるモノがあるんじゃないの、気持ちはコントロール出来ないけど

言葉や行動は自分の意志で変えることが出来るでしょ?」

「何言ってるか分かんない!

兎に角、あんたは他人を馬鹿にして下に見てるのよ!」

「そうなんだろうか…?」

「いいから、黙って認めなさい!

人が困っているのを見て自分はそうじゃなくて良かったって思ってるクセに!」

「んー、そうなのかな」

「そうなのかな、じゃなくてそうなのよ!」

 

その人は、感情の起伏が激しく家族を自分の思い通りにさせようとしているように、

私には見えた。

 この人の家族は、この人の友人はこの人をどう感じているのだろうか。と思った。

釈迦の八正道(599にある)の話をしたことがあったが、それも彼女の逆鱗(げきりん)

に触れただけのようだった。

 25年程前にNHKで“しゃべり場”という討論する番組があった。

戦争と暴力の反対にあるのは、愛と平和でなく対話である。という。

その時の“しゃべり場”は粗削りで、感情的で相手をやっつけることにエネルギーを

費やしていて、決めつけ、知ったふう、あげ足とりと聞いていると突っ込み所満載で、

どうしたら理性的で建設的な会話、対話になるだろうと考えた。

 その想いを、“しゃべり場”573と574で書いた。

 

「あなたの子(家族、縁あって繋がった者たち)は、あなたの子であって、

あなたのモノではない。

あなたの気持ちが良くなる為に存在しているのでなく、

あなたの手柄を立てる為に存在しているのでなく、

あなたのやりたいことを代わりにやらせる代理人ではない。

その人は、その人自身の運命、宿命を持って自分の力で別の人生を生きている、

自分の力で生きて行く別の存在。

そして、自分も天上天下唯我独尊」

 

21年前、知人が自ら命を絶った。

衝撃だった。

 その人の死を悲しみ気持ちの整理がつかない人達が、あの人はこうだったのよ。

あの人はあんなだったのよ。と話すのを聞いた。

 思った。

本当のことは、分からない。分かったつもりで語り出した時に道に迷う。

分からないから。と投げだすのは理解への扉を閉じる。

「自分は分からない。ということを、分かる努力をしながら」

「理解しようとする道を歩む」

 

人にみじめな人など居ない。

ただ、ちょっと意地になってる人と、意地を捨てて生きて行こうとしている人が居る。

だけなんじゃないかなぁ。