クレヨンと習字

 

 ボクは、子供の頃、絵を描くのが好きだった。

図工の時間になると、特に自由に描いていい時など嬉しくて勿体なくて、何を描いても

いいと言われる程、なかなか描き始められないことになった。

 いまだに、何か描こうかな。と、思うだけでワクワクするのは何故なんだろう。

 

 以前に、図工の時間に、何を描くかをずっと考えていて休み時間に描き始め、次の授業

になっても、次の授業でも描いていて給食の時間になっても描いていたという話を書いた。

 何故そんなことをしたのか、思い当たることは色々あるが、本当にその時に何を考えて

いたのか覚えていることだけのことだったのかどうかは、分からない。

 ボクの描いた絵が県だか何だかに行くことになって、でも汚れていて汚いから描き直し

てくるようにと家に持ち返されたことがあった。

 夕焼けの絵だったが、ボクとしては手で擦(こす)ることで色を混ぜ合わせた意図して

汚したものだった。

 描き直して持って行くと、やっぱり最初描いたものの方が良いということだった。

その時、大人ってヤツは分からねぇ。と思った。

 

 ボクにとっての絵は、モノ書きの次にやりたいことだった。

でも、モノ書きは、“なりたい”んじゃなくて“なる”と気が付いた時は思っていたことで

絵を描く人は、なりたいと思いながら、やっぱりそれは“なりたい”という域のことで、

才能がないということを知った時期があった。

 才能ってのは、めげないで突き進めるってことで、やっぱりそれは自分の意志とか努力

じゃどうしようもないところがあるような気がする。

 だけど、中学位までは自分に才能があると思い込んでいたんだな。

何かを描きたいという想いが、学校の授業とかじゃなくて岡本太郎じゃないが、爆発する

みたいに溢れ出してその辺りの紙に手当たり次第に描いていた。

 

 あっ、今日はその話じゃなくてクレヨンの話をしようと思ったんだ。

 

 小学校の絵はクレヨンが殆どだった。

ボクは何かする時にそこに向かって一直線になる。

描きたいと思ったものをどうするか、頭の中に出ては消えるイメージを捕まえながら

ここに何色をどのように入れるか、乗せていくか、真剣勝負になった時、クレヨンに気を

使うなどということはあり得なくなる。

 そして、ボクのクレヨンは、カバーの紙はなくなり、折れ、他の色と混じった汚いもの

となっていた。

 そんな時、宿題だったかでクレヨンを使わなければならないことになった。

がぁ、何とクレヨンを学校に忘れてきた。

 仕方がないので、妹に貸してくれと頼んだ。

この妹ってヤツが、ボクとまるっきり正反対のヤツなんだな。

 クレヨンは均等に減らす為に使って、カバーの紙は皆同じ長さにキレイに剥いてある。

それらは、箱に書いてあった色の名前の通りにきちんと並べられていた。

 ボクは、(妹はクレヨンを使ってんじゃなくて、使われてんだな)と思っていた。

その妹に、そのクレヨンを無理やり借りた。

 大事に使おうと思ったのに、なぁ、そのクレヨンをメチャクチャにしてしまった。

それを返した時、妹は泣いた。

「お兄ちゃんにだけは貸したくなかった」と。

それを見た母親が言った。

「バカだなぁ、お兄ちゃんに貸したらこうなることは分かっていたっぺ」

 

 悪いことをしたと思う。

んだけど、ボクはそういう何かに一心不乱に夢中になる自分が好きなんだな。

 ゴメンな妹。

 

習字も好きで4年生からだったかな、学校で習字が始まり楽しくて仕方がなかった。

最初に、伸び伸びしていて大変よろしいと誉められ、益々習字が好きになった。

 でも、学年が変わって先生が変わった。

その先生は、習字紙を折ってその線からはみ出さないように書けという指導をする人だった。

 筆は全部おろさず糸で縛らせた。

その先生になってから、ボクの書いたものが黒板に貼られたことがあった。

(まーた、誉められるのかぁ)とお調子者のボクは思った。

 すると、先生は言った。

「こんな風に汚して書いてはいけません。これは、悪い見本です」

みんなが笑った。

 それから、暫らくその習字の時間が嫌いになった。

 

中学に入ってボクが幼い頃に近所に住んでいたという人が習字の顧問になった。

その人は、小学校で習字を教えた先生とは違った。

 形でなく心を露(あら)わす、風景や季節を感じる書を、心を込めて書くということを

教えてくれた。楽しかった。

 その時に書いた大きな作品が今もある。

中学2年と書かれたそれは、今でも書けない勢いがある。

 でも、勢いがあるのは後半戦で書き出しが固い。固い上に撫で書きがされている。

それを見る度に(これが自分なんだ)と思う。

 調子が良いと頭にのぼせ、それはある時自分でも思いも掛けない大きな成果をあげる。

うれしくなる。得意になる。

すると、そこに欲を出す。

そして、撫で書きをするというようなインチキをするんだ。

 

 残念だが、自分にはそういう要素がある。

イイカッコしたがる、自分でない自分を演出したがる。

 

 時々、自分が書いた掛け軸を出して見る。

そこに、ウソ、誤魔化しだけはやめろよな。という声を聞く。

 

 こういうカッコ悪い自分を、裸にする為に、

ボクは書き物をすることになった。