車

 

もうすぐ30歳になる一人娘の栞(しおり)が、小学生だった頃の話だ。

栞はピアノを習っていて、奈々はその送り迎えをしていた。

奈々が自分の店を持ったのは、栞が中学に入ってからだった。

 

秋も深まってきたその日、栞のピアノレッスンが終わるのを奈々は待っていた。

 そこはピアノ教室の駐車場だったが、交差点にあるので近道するために入って来る

車がある。

 奈々は、駐車場の奥端に車を停めていた。

案の定、斜めに入ってきた車があった。

そのまま突っ切って行くのかと思いきや方向転換をしようと、急にバックしてきた。

後ろを見ている様子はない。

あー、クラクションを鳴らさなければ。と思う間もなく“ゴン”と奈々の車の

フロントにその車はぶつかった。

 

「何時かはクラウン」というコマーシャルが流れていた頃だった。

やっと貯めた400万で1ヶ月前に買った車だった。

 止まった車から年配の女性が降りてきた。

その第一声は「何時もは、こんなトコに車停まっていない!」だった。

 奈々は、テンパッテいるらしいその人が可哀想な気持ちになった。

「あっ、大丈夫ですから。大したことないですから。

でも、免許所見せてください」と免許書を見て確認しながら、住所と電話番号をメモした。

「警察呼びますか?」と奈々が聞くと、

「オオゴトにしないで下さい」と言う。その慌てて取り乱している様子に、

「後で電話します」と言ってレッスンの終わって出てきた娘を連れて、自宅に帰った。

 

秀作にその話をすると「ふーん」と言った。

車を見ると、バンパーで押された本体に傷が付いていた。

 奈々は、事故をやったことがある。人の車をこすったことも、こすられたこともある。

住宅の中の道路を走っていて横道から出てきた車にぶつけられたこともあった。

 十分注意して走っていても、止まっていても事故が起きる時は起きる。

何事もなく暮らして居ることの方が不思議な気がする。

怪我さえなければ車は直せばよいと思う。

「コレくらいだったら、直してもらえばいいや」と奈々が言うと

「あんたは、大きいねぇ。

普通、買って1ヶ月位だったら、値打ちが下るから新しいのに取り変えろって言うよ」

「車は走ればいいんだよ。大体、コレは買い換えるつもりないから、

でも、塗装だけは直しておかないと錆びるから」と、高津という車をぶつけた家に

電話を入れた。

「あのー、先ほど車をぶつけられた者なんですが、やっぱりへこんでましたんで修理

お願いします」と言うと、間もなく高津は夫と二人でやって来た。

 奈々が表に出ると痩せた旦那が青い顔をして立っていた。

車に案内すると、それまでロクな挨拶もしなかった旦那が、バンパーに足を掛け

グイグイと押した。

「なんだ、このバンパーは、こんなに柔らかいから本体にいっちゃったんだな」

奈々は、(人んちの車に足を掛けんじゃねえよ!)と思いながら

「それ、吸収バンパーって新製品らしいですよ」と冷静に言うと、

「新製品って、買ってどれくらいになるの?」

「1ヶ月です」

「えっ、この車は何?」

「クラウンです」

旦那の顔が、益々青くなった。

「で、どういうことなの?!」と旦那が聞いた。

「ええ、私がピアノ教室の駐車場に停まっていたら奥さんの車が入ってきて、

バックしてきてぶつかったんです」

「じゃあ、ウチの女房が悪いって言うんですか!?」

「悪いかどうか分かりません。事実を言っただけです」と言ったが、

興奮している様子を見て

 (だーめだ、こりゃ。そうだ、秀作にやらせよう)と思い、

「ちょっと、待っててください」と家に入った。

 

「ちょっと、オトウ、あたしの車ぶつけた人が旦那連れて来てるんだけど、

他所の駐車場に勝手に侵入して、停まってる車にぶつけておいて

『ウチの女房が悪いっていうんですか!』って息巻いてんだけど、オトウもあたしの

加勢に出てきなよ」

「やだよ。人轢いたわけでもなし、ホントに困ったら出て行くけど、あんた、

それくらいのことで人の手借りるような人じゃないでしょ」

「あー、確かに」

奈々は人の手を借りるどころか、逆に揉め事があると出て行って治めに行く方の人間

だったことを忘れていた。

 

車に戻ると

「あなた、大したことないって言ったでしょ!」と涙目の奥さんが言った。

「ええ、大したことないでしょ。修理に出せば直るんだし、誰も怪我もしてないし、

修理すればそれでいいって私が言ってるんだから、

私、事故に巻き込まれたことあるけど、こんなの事故のうちに入らないですよ」

「私は、事故なんてしたこと、一度もありません!」

(はぁー、人の車ぶつけといて何威張ってんだか)

「兎に角、保険で直してもらえばいいですから」

「保険使ったら、保険料が高くなっちゃうでしょ」

「じゃ、実費で直したらいいでしょ」と言いながら

(ここまできたら、バカも国宝級だな)と奈々は思った。

 

 結局、保険で直すことになったが、高津の知っている車屋で直して欲しいという。

車の修理には2週間ぐらい掛かるが、代車も出ないということだった。

 奈々は文句を言おうかと思ったが面倒で止めた。

 

 しかし、車がないことで毎日不自由して、どうしても車が必要になった時、二人が

一度も謝っていないことを思い出したら、奈々の腹の虫が納まらなくなった。

高津の家に電話を入れた。

「もしもし、市田なんですけど、やっぱり警察に入ってもらおうと思います」

「どうしてですか?話をオオゴトにしないで下さい」

「どうしてだと思います。

停まっている車にぶつけて謝らない。車を修理に出して代車も出さない。

あなた、私に一度も謝っていないですよね。

お宅の旦那さんに『うちの女房が悪いって言うんですか』って怒鳴られたけど、客観的に

見て、誰が悪かったのかハッキリさせましょう」

すると「すみません。私、夫が居ないと何も出来ないんです」と高津は初めて謝った。

 

高津の家は町工場を経営しているらしかった。

大手メーカーに勤めていた旦那が脱サラして工場を出しバブル景気に乗っていると噂で

聞いたが、暫くして、坂の途中にあった高津の工場がなくなっていた。

バブルが弾けて仕事が減り、倒産して何処かに行ったという話だった。

 

 クラウンは、11年乗った。