教育 躾

 教育や躾の行き届いた学校や家庭を見かけなくなった。

それは、私が見ないだけのことなのかもしれないが。

それを語るにあたっては、教育とは何ぞやの話から始めねばならない。

 こういう話口調で始めると、周りがザット引いていくのを感じる。

面白く興味を引いて話しに引き込むというやり方もあるが、今の私は依怙地になっていて

読みたくないヤツは読まなくていい!という気持ちなのだ。

 

先ず教育とは何か。教え育てることだ。

それが、教えるべきことをちゃんと教えていない。

何が良いことで何がいけないことなのかを。

いけないということには必ずのように怒られるからとか、損するからという言い訳がつい

てくる。

大体が、何がいい事で何が悪いことかなのかが、大人が分からなくなっている。

そして、手を掛けるべき躾や世話はせずに、出してならない手を出している。

しかし、しかしだ。もっと大事な(待つ)ことが出来ない。

待つのは誰か、教育する側とされる者の両方だ。

教育する人間が我慢も待つことも出来ない。

そして我慢のない待つことをしない大人に教育されることによって、

我慢の出来ない堪え性のない子供が出来上がる。

 具体例を挙げよう。

腹が減っていないのに何か食べさせる。

寒いと言ってなくても着せる。

本人が欲しいという前に与える。

本人が、自分で感じて動く前に、自分の口で要求する前に手を出し、口を出し、与える。

感じて動くと書いて感動となる。だのに、本人が感じる前に周りが先に動いてしまう。

(そして、自分は何が欲しいのか、何がしたいのか分からない人間が、出来上がっていく)

何がしたいか分からなかったら、意思表示が出来ないのは当たり前のことだ。

その本人が感じて、それを自分で確かめるまで口出しせずに周りの人間は待ってくれ。

そして、その子がどう行動するか見守ってくれ。

何か欲しいときは自分の口で相手に伝え、自分が行動するのだということを、教えること

もしなければ、それに本人が気付き行動に移すまで待つことが出来ない。

いや、教える大人自身が待つことが大切だということを、知らないのかもしれない。

子供が自ら気が付き、動き出すまで待てない。(待たない)

待てずに勝手に気をまわし、それを与えてしまうことによって、

その本人が何を欲しているのか、何がしたいのか分からなくなってしまう。

そして、待つことや我慢することがないことによって、我慢の出来ない、待つことの出来

ない人間になっていくのだ。

我慢が出来ず、我慢を知らず、頑張れない、頑張らない人間は、言い訳で生きる。

欲しいとなったら我慢が出来ない。目的のためには手段を選ばない、待てない。

頑張れない。そうしたのは大人だ。

そういう私も子供が一人暮らしを始めた時、金に困って食べる物にも事欠いているのを

見ていられず、本人が言っていないのに食料を運んだり金をやったりしてきた。

その当時、子供には毎月送金していた。それをやり繰り出来ない、或いはしようとしない

のは、本人の責任であった。子供が担っていくべき自己責任を私が崩していたのだ。

 はっきり言って偉そうなことを言える私でない。が、それでも言いたい。

失敗の多い子育てだったからこそ分かったことが沢山あるのだ。

「お母さんは、私が何か始めたとき、何かが起きる前にソレについて教えてくるから

自分で体験して失敗が出来ない」と子供に泣かれたことがあった。

辛かった。自分は最低だと思った。

 

自分は、失敗だらけで子供を育ててきたのだが、子連れの親を見ると、これではいけな

いと心配になる。

最近、躾の行き届いたハキハキと気持ちのいい子を殆ど見掛けなくなった。

挨拶すると親の陰に隠れる。

話しかけても返事をしない。目が合わない。合わせようとしない。

便所を借りても礼を言わない。大体が自分の口で便所を貸してくれと言える子がいない。

かと思うと、ヤケに馴れ馴れしく大人を侮っている。

欲しいものがあっても自分の口で言わず親を突っつく、ブーたれる。

それを、貰っても礼を言わない。

 

大人は余計なお節介はしまくるが、大事なところは守ってやらない。教えない。

夜、寝るべき時間に連れまわす。

外で便所を借りずにその辺で用をたさせる。

やってよいことと、やってはいけないことを教えない。

(そして、気付かないうちに子供は不安と不信感を募らせていくのだ。)

 

或るデパートの高級メガネ売り場で、3歳位の子がブランド品のメガネをベタベタと

いじり回していた。

お洒落なスーツとワンピース姿の若い両親は、子供に注意することなくその傍らで話し

ていた。

店員は子供の顔を睨んでいるが、注意はしない。

子供は、メガネを放り出し親の元へ行き、その家族は何処かへ行った。

店員はベタベタになったメガネを拭き、子供の手が届かない所に置いた。

メガネは、有名メーカーの品で5万円だった。

 そのメガネを、買う人がいる。

自分に関わること以外には関心もなければ、責任感もない人だらけの世の中になり、

自分の買う物も信じられなくなる。

子供は、何故自分が睨まれたか分からず、親に訴える術もなく、

自分が排除されたことだけを胸に刻む。

 

 先生の居ない学校がある。

4歳位から18歳位までの子供が通う学校だ。

そこでは、自分のやりたいことは、自分で見つけ自らが行動し行う。

先生は居ないがスタッフと呼ばれる人が相談にのる。

数学を勉強したければ仲間を集めて教師をよんでもらう。

ピアノが習いたければ、それをスタッフに訴え環境を整えてはもらうが、その道を開くの

は、そしてそれを行うのは総て本人である。

スタッフに聞けばそれに対しての答えがある。行動すれば道は開ける。

しかし、本人が動かなければ何も変わってはいかない。

それを知ることが、一番大切ことなんだという。

そこに勝手に気を利かせるお節介な人間はいない。

新しく入って一人でポツンとしている子供が居ても、その子が自分から動き出さなけれ

ば誰も声を掛けない。

その子が、自分から動くまで待つ。

日本の教育は、「お友達が居ない子は、仲間に入れてあげましょうね。声を掛けてあげてね」

それが優しさだと思ってきた。

そして、誰かが声を掛けてくれるのを待つことが良いことだと思ってしまった。

自分の意志を持ち「自分で考えて自分の力で頑張ってみるから放っておいて」と言うと

可愛げのない子だと言われ「じゃあもう何か困っても来ないでね」と自分を頼りにしない

者は、仲間でないとみなされる図式が出来上る。

 

気を利かせろといわれて女は育つ。

食事の最中に男が、醤油に目をやる。中身が空だ。女は急いで醤油を入れに行く。

醤油さしに中身が切れてることは、女の恥だという意識がある。(私は)

準備万端整えることの出来る能力が、女には要求されている気がする。(私は)

食後に言われなくてもお茶が出てきて当たり前、言われなくても気を利かせるのがいい女

の定義のような気がして生きてきた。(私は)

テーブルの上に不足の物があった時、気が付いた夫でなく私が取りに行ってきた。

そして、子供に何か教えるのが良いお母さんのような気がしてやってきた。

私は、子供が聞いていないのに望んでいないのに、何かにつけてウンチクを語り、教えを

説いてきた。自分は生き方を迷い、答えが見つからないでいたのに…。

 

 私は、完全でなくても自分の力で生きて行きたいと思って生きてきた。

自分で考えて、自分で決めて、自分の出来る範囲で、自分で行う。

自分のしたことには、自分で責任を持ちたい。

責任はやったその本人が持ち、取るべきだと私は思う。そう生きていけたら何もいらない。

そう思って生きてきたのに…。

 それなのに、自分の子供には手を出し、口を出し、私の価値観を押し付けてきたのだ。

悔しい。

 

「教育とは、学校で習ったものを総て忘れてしまった後に残るものをいう」とアルベルト

アインシュタインが言った。

教育で最後に残るものは、

人を敬う気持ち。我慢強さ、辛抱強さ、頑張る気持ち、素直な気持ち。

人の話に耳を傾け聞き、自分で考え、自分で決めて、自分が行う。

そして、責任を持つこと。

 

 出来ていないのに、いや出来ていないからこそ、そこに向かっていきたいんだ。

                        がんばる。