給食費

 学校で出る給食。

その給食費を払わない親が、急増している。

それは全体の  パーセントにも上る。その金額は  億円にもなるという。

その払っていない者の60パーセント以上が払えるのに払わないのだという。

つまり、意志を持って払っていない。

その親は、自ら払わないことを選択しているのだ。

 

代金を払うことになっているのに、食事をしてそれを払わないことを無銭飲食という。

無銭飲食は犯罪だ。

万引きをして「あなたのお子さんが、泥棒をしました」と伝えられたところ

「泥棒じゃないでしょ!たかが万引きでしょ、そんなこと言うと訴えるわよ!」と言った

親がいた。

 イジメで死傷者が出ても、イジメという言葉を使うことで犯罪のニオイが消える。

これらのモノには、みな同じすり替えの甘さを感じる。

 

「義務教育だったら、給食費もタダにしたらいいのに」という者がいた。

その人は、義務教育ということを理解していないようだ。

日本国憲法第26条で

すべて国民は法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける

権利を有する。

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる

義務を負う。義務教育は、これを無償とする。と、ある。

つまり、日本の国や大人は、子供に教育を受けさせる義務があるということで

義務教育を受ける権利は、子供にあるのだ。

何を履き違えているのか、教育を与えるべき立場に立ち、その義務を背負っている筈の

大人が、子供みたいに自分の子供の責任を負おうとせず、自分までオンブに抱っこでいよ

うとしている。

 どう考えたって教育費を無償にするのであって、その他のかかりまで出せというのは

筋違いで、優しさにつけこむ強請(ゆすり)タカリの世界だろうが。

 私が小学校に上がった年(戦後15年目)に学校給食になった。

栄養状況の良くなかった時代に出来た学校給食によって、日本の子供の体格が飛躍的に

向上した。

 その頃から、貧富の格差がなくなった。見えなくなったという人は多い。

そして、何様かのように思い上がり、頼まれて学校に行き、頼まれて生きているような

人間も増えた。

「給食費を払っているんだから、頂きます、ご馳走様という必要はない」という親がいた。

その親には、「頂きます、ご馳走様」の意味から教えなければならないのか?

馳せ走り集められ、作られた食物に対する感謝と、作った者への感謝、モノの命を頂く

有り難さ、有り難いとは、有ることが難しいということだ。

今、自分に命があって健康があって食べることが出来る。

そこに、それを作った人がいて、食べ物があって、養っている親、大人、国があって

食べることが出来るのだ。

 それらすべてのことに対しての感謝を、頂きます、ご馳走様という言葉で表すのだ。

自分の力で生きていると思うのは、思い上がりだ。

 

「みんなが払わないんなら、自分だけ払うのはバカみたいじゃないか?」と言う者がいた。

 誰だかが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言った。

群れて法律を犯すことは、恥だ。

 あれは、「赤信号、みんなで渡る恥知らず」考えなしで流されるバカの群れ、と言うべき

だろう。

真面目であることが、キマリを守ることが恥ずかしいと思われるようになったのは何時

からなんだろう?

 

 “心を育む総合フォーラム”が、山折哲夫氏を座長として、2年近くに及んだ討議を

提言にまとめられた。

 家庭、学校、地域、企業、社会の役割に分かれた中に

「親への信頼、生きる基本」と、あった。

学校の作業奉仕で、噂話に終始し一向に作業をしない人がいる。

自分は子供の面倒をみないのに、事ある毎に学校に文句を付ける人がいる。

学歴や肩書きばかりを重視して、人目を気にして外側だけを飾りたて自慢する人がいる。

強い人や都合のいい人には媚びて、弱いものイジメをする人がいる。

今、給食費を払えても払わない親がいる。

 

そういう人を親に持った子供は、“親への信頼”を持つことが出来るのだろうか?

 悲しいことだが、こうなったら親の教育をすることと同時に、

「そういう親を信頼しなくてもいいんだよ」と、子供に言わなければならないだろう。

尊敬出来ない生き方をしている親を、尊敬しろ、信頼しろということは、拷問だ。

 このフォーラムは素晴しいと思うのだが、子供たちから何かが遠い気がする。

「親を、先生を、大人を信頼出来ないことで、自分を責める必要はない」と、子供に教え

るべきだ。

親を信頼出来ない自分を、否定してはいけない。

間違っている人を受け入れることは、自らも間違った道を歩むことになる。

 

「見返りもないのに、人のために何か一所懸命するのは、バカのやることだよ」

「誰も見ていないところで良いことをしても、仕方がないよ」

「見つからなければ、何をやってもいいんだよ」

「ウチのオヤジは頭いいから、給食費払わないんだ」と、子供に言わせてはならない。

 今、こんなにイジメが蔓延しているのは、子供が自分の心にウソをついているからなん

じゃないかと思う。

 私みたいに、はっきり正直に自分の心を出したら気持ちいいのになあー。

 

 大人や社会を嫌がる若者にも言いたい。

文句ばっかり言ってないで、ちゃんと働け!

“ちゃんと”ってのは、心を込めて楽しんで、キマリを守って働けってことだ。

遊ぶことばっかりに気を取られてんじゃねえ!

友達友達って言うけど、人は孤独な時間に自分を創り上げていくんだ。

形ばっかりの、馴れ合いの仲良しごっこで孤独や不安を紛らわせていると、自分が何だか

分からなくなっちまうぞ。

 好きな人には相好を崩して近寄り、嫌いな人には邪険にするほど格好悪いものはない。

しゃんとして、毅然(きぜん)として、自分と戦って生きてみろ。

 

 知人におとなしくてはっきりモノが言えない人がいる。

その人に失礼なことを言い、失礼なことをする人がいるのだという。

そのおとなしい人が言った。

「あの人の親が失礼な人で、そういう親に育てられちゃったからあんな風になちゃったん

で、彼女は育ちが悪かったんだから仕方がないって諦めてるの」

ため息まじりのその言葉を聞いて、私は思った。

 あんたも、失礼だね。「育てられちゃったから、ああなちゃった」ってその人を否定し、

哀れむことで溜飲を下げて諦めに持っていってる。

また別の知人で、人間的にこれはヒドイと思う親を持つ人がいる。

しかし、その人は、自分は人に対して公平で人の身になって考えられる、絶対に失礼な

人間にはならないと決めて、努力して生きてきた。

そして、現在、信頼の置ける人望の厚い、誰に対しても敬意のある人である。

優しい親に育てられても、人の苦しみや悲しみを理解出来ない人もいれば、

人の気持ちを理解しようとする、本当に優しい人もいる。

 

育ちは、自分の力で良くすることも、悪くすることも出来るということだ。

 

 あっ、自分が食ったモンは、自分で金を払う。これ当たり前。

子供は見てるぞ。

 人に奢ってもらう気にばっかりなってるコバンザメみたいなみっともない人間になって

こいいのか?

 女だと、プレゼントがないと愛されてないなんて言う、自信のないコジキになるんだ。

若しくは、何かチョーダイチョーダイ、コジキ。

 ウー、ヤダヤダ!