マカオ

 

 1990年の7月、香港マカオに行った。

 

 あの頃は世の中の景気が良くて、我が家の商売もうなぎのぼりの時期で、

問屋の接待旅行に追加料金を払って、義理の母(お母さん)と実の母(お母ちゃん)の

二人を連れて行った。

 

 例によって香港に到着すると、私のスーツケースだけが行方不明だという。

お母さんとお母ちゃんを同じ部屋にして、私は初めて会った若い女の子と相部屋になった。

着替えも化粧落しも出来ず(あの頃は化粧なんてしてたんだねぇ)夜になって、眠れぬ

夜が明ける頃に、何処から出てきたんだか、スーツケースが見つかりましたと連絡が

入った。

 暑い夏で、香港の気温は連日40度、観光バスが停まるビルの下は60度もあった。

外に出ると着ていた服が、あっという間に湿気を含んで重くなる。

それがクーラーの効いた建物の中に入るとあっという間に冷やされて乾く。

これが、気持ちがいいような悪いような、とにかく、身体には悪いだろうね。

灯りの点いた船上レストランでの食事、百万ドルの夜景見学、小さな島はその気に

なったらあっという間に一周出来る位だと思うんだが、そこが広く感じるように観光

バスは遠回りしてグルグル回った。その途中で同じ競馬場が何度も見えた。

 あの頃、テレサ・テンの「星屑を地上にまいて、この国の何処かに〜、誰もみんな

帰るところを、持っている筈。あーあー、人は ごとの夢を追いかけて、生きている

だけならば、はかな過ぎる〜」っていう歌があって、

あっ、思い出した。香港だ!

 歌謡曲は殆ど好きでないんだけど、あの歌だけは好きだったなぁ。

あー、そうか。香港の話を書いているから、この歌が出てきたんだな。

 大金持ちの邸宅が並ぶ海が見える町があって、ジュディオングだかアグネスチャンだか

ジャッキーチェンだかの家もあるって話だった。

そこの坂道に、ナンバー1の車が停まっていて、その番号を取るためにも大金が

使われたとか、大金持ちの車だった。

 私の嫌いな買い物をする場所に次々と連れていかれ、二人の母は私に義理立てして

「楽しい」と言っていたが、本当かな?

 

 その頃の香港はイギリスの領地で、マカオはポルトガルの領地だった。

で、その後、香港は1997年の7月に、マカオは1999年12月に返還された。

 

香港の空港は狭くて運転に技術が要る、だけど、だから、選りすぐりの操縦士が

集まっていて事故が殆どない。と、添乗員は自慢そうに話した。

 事実、海側からだったか山側からだったか、急カーブして山の間に突き刺さるみたい

な感じで小さな滑走路へ降りた時は、搭乗者の間から拍手が出た。

 香港が中国に変換された時、その飛行場の場所を変えることが返還の条件にあった

らしい。

風水によると、その場所に飛行場があると国が栄えるからって、返還する時に

その場所を変えさせたっていう噂だったけど。

(それが本当ならイギリスも了見が狭いよなぁ。

手放して自分のモノじゃなくなるからって、人の幸せを願うことが出来ない国なのか?)

 そして、立地条件ではそれまでより安全と思われる場所に飛行場が建設され始めたんだ

けど、建設中から事故が多発した。

中国って国は、風水なんかの占いが発達してるのかねぇ、なんたって歴史が長いもん

ねぇ。

 ホワイトハウスとか、ホテルが風水で守られたって話は長くなるので、いずれまた。

 

 マカオは、そういうわけで1999年に変換されて

2005年に8つの広場と、22コの歴史的建造物の合計30が、世界文化遺産になった。

 

 私たちがマカオに行った時は、古い民家がバンバン壊されていてここに住んでいる

人たちはどうなるんだろう、と思ったっけ。

現在、人口17、000人位の、埋め立てで広くなったマカオは中国とポルトガルと

イギリスと、何だか日本を足したような町だった。

 香港からマカオへは、高速船に乗って行った。

確か、国境を越えるのでパスポートを忘れないようにと念を押された。

 

 船に乗る所には、沢山のお土産売り、行商の人が居た。

その人たちは、マカオを移動する間中、観光バスを追いかけてきた。

「物売りの人が来たらしばらく様子を見るように、ドンドン値段は下っていくので、

この辺でいいと自分で納得してから買うように」と添乗員からの注意があった。

台湾でもシンガポールでも「シェイエン、シェイエン」と日本円の千円を求め、

(だから、両替しなくても大丈夫だったりする)

そして、扇子が5本で千円から20本で千円になっていく。

黒檀(こくたん)の箸が、5本で千円から20本千円になり、七宝のブローチも、

鳥の羽で作った飾り物も、同じ値段で数がドンドン増えていく。

「それを楽しんで下さいね」と現地の案内人は言う。

「アナタタチ日本人は、お金持ちです。ゲームでお買い物は出来ます。

ここでお土産を売っている人たちは貧しい。生きるために必死なんです。

ズルイって言わないでクダサイ。そして、買うこともお土産の話にしてクダサイ」

と台湾の添乗員が言っていたのを思い出す。

 母達には、「買い逃しても次の所で必ず買えるから、買い物は慌てないでね」と言って

いた。

 その行商の人たちの中に、若いと思えば10代、年取っていると思えば40代に

見える女の人が居た。

痩せたその女の人は、真っ青な顔で背中に赤子を背負っていた。

背負われた赤ん坊は、まだ首が据わっていないのかその人が動く度に怖ろしい程首が

ブランブラン揺れた。

それを見たお母ちゃんは、「あれは産まれたばかりの赤ん坊だな。あの母ちゃんも

産んですぐ位だな。あれじゃ、母ちゃんも赤ん坊も死んじまうな」と言った。

 その瞬間、私の気分は地の底に落ちた。

何も楽しくなく、不安でイッパイになった。

 大きな荷物を乗せられないでいるその人に手を貸すと驚いたように私を見たが、

その白く血の気のない顔は驚く元気さえないように見えた。

 背負われた赤子の頭を支えると、柔らかくて暖かかった。

 

 海を渡る途中に線を引いて分けたかのように、右左の水の色が全く違う所があった。

二つの海流が合流している場所だった。

ガーガーと鳴る船のエンジン音を消そうとするかのように、雑音の入る音楽。

夢の中に居るようなフワフワした実感のない気持ち、あの親子のことが頭から離れない。

1時間ほどでマカオに着いた。

 船の乗り降りはお客が優先でいるのに、船から降りると土産売りの人たちはもう

待っていた。

 何かの入り口でも出口でも、ちょっと足が止まると土産売り合戦が始まる。

私は、何かの懺悔であるかのようにあの女性からウサギの毛皮で出来たネズミを買った。

5匹で千円、1匹200円の計算だ。

それから同じ千円でドンドン数が増えていくことは分かっていた。

お母ちゃんが「麻子よ、お前、何でそんなに早く買うんだ?」と聞いてきたが、

ムカついて返事しないでいると、

「お母ちゃんには慌てて買うないって言ってたくせに」とブツブツ言っている。

 そうしているうちに、ウサギネズミの数は増えて20匹で千円になった。

「よーし、お母ちゃんも買うべ」とお母ちゃんがウエストポーチから財布を出そうと

したが、「麻子よ、大変だ。財布がない」

「えー、パスポートは?」

「パスポートはある」

「じゃ、大丈夫。お金いっぱい入ってたの?」

「2、3万かな」

「だったらいい!あきらめな!」

 子供を産んで、すぐにでも働かなくてはならない人がいる。

産まれてすぐに背負われて、グッタリしている子がいる。

金を持ってゲームで買い物をする人がいる。

自分も後者の人間であるのに、腹が立って仕方がない。

「麻子よ、お金貸してくれないか?」とお母ちゃんが言った時、駐車場に観光バスが来た。

「はい、バスに乗ってください」と添乗員が呼んでいる。

「また、後でも買えるよ」と言ってバスに乗った。

 ところが、その後、ウサギネズミ売りは居なくなった。

つまり、お母ちゃんはウサギネズミが買えないでしまった。

「あの時、麻子がお金貸してくれれば良かったのに」とお母ちゃんは何時までも文句を

言った。

 

 カジノに行った。マカオのカジノは“東洋のラスベガス”といわれているという。

半ズボンや草履の人は、中に入れないらしい。

 最初に大小とかいうのをやったが、私は一人で勝ち続け恐くなって止めた。

お母さんとお母ちゃんは二人で遊ぶように言って、私は一人になった。

私は何処でも一人になりたくなる。

スロットマシーンの所で、添乗員の話。

「ここにこのようにコインを入れます。このレバーを動かします。

前に添乗員をした人、このように見本でやって見せました。

当たりました。1億円当たりました。すぐに、保険に入って添乗員辞めて国に帰りました。

 ダメですね。ワタシ、当たっても仕事最後までします。

でも、これジブンのお金です、当たったらワタシのモノです」と言ってレバーを下げた。

 下げる瞬間、ドキドキした。

私もそれに習ってスロットマシーンをしていると、コインが出てきた。

 すると横に、明らかにお客ではない感じの女の人が立った。

そして、教える振りをしながらそこのコインを抜き取るのが見えた。

「ありがとう、もういいよ」と言うとムッとしている。

私は「これ、あげる」と言って、彼女が抜き取った何倍ものコインを掴(つか)んで

彼女の前に突き出した。

そして、「えっ、イイデス」としり込みする彼女の手に握らせた。

 

爆竹が鳴らされる忠魂碑みたいなトコには、目が見えず耳も聞こえないという人が居た。

私は、刀とか爆弾が怖い、あと狭い所とか出口の見えない所。

 爆竹は邪気を祓う力があるということで、出航の時や開店の祝いで鳴らされるらしいが、

私は、見物客の一番後ろに居ても怖かった。

それより、爆竹のすぐ近くに居る聾唖で盲目の人たちが怖かった。

その人たちが怖いのではない。そういう状況に置かれているということが怖い。

 

 マカオの建物で唯一記憶に残っているのが、セントポール天主堂。

階段の上に火事で正面だけが残ったというその壁のような建物を見ながら、

何故か森瑤子の満月を思い出した。

 

ウサギのネズミは、その年に増築したばかりの壁にぶら下げられ、つい最近まであった。

この話を何時か書きたいと思って、19年が過ぎた。

 あの親子は、どうしているだろう?

 

<日立、不思議発見>より

 マカオは別名、ホウケンというらしい。ホウは牡蠣(かき)でケンは鏡という意味。

マカオの通りに味噌(ミソ)通りと名付けられるくらい、日本と深い関係があった。

 返還して“マカエンセ”というパトワ語が使われているが、ポルトガル語を簡単にして

英語や日本語もプラスされているという。

 日本は1600年〜1700年頃、マカオと盛んに貿易を行った。

その頃の日本は石見銀山が有名で世界の3分の1の銀が採れていたんだとか。

 その銀のお陰でマカオは大金持ちが生まれ、世界文化遺産に30も登録されるような

建物が沢山造られた。

 

 6月6日のテレビを見ていたら、マカオに行った時のことを思い出した。

記憶に頼って書いているので、何か間違っていたらゴメン。