マトハズレ

 

 ある店に、親が買い物をしている間、子供の遊ぶ場所がある。

そこのテーブルには『あそんだら、かたづけようね』との張り紙がある。

店の人から「どうぞ、遊んでくださいね〜」と声が掛かると殆どの親が

「遊んだら片付けるんだよ」と繰り返し言い出す。

 

 その親にとって大事なことは、『片付ける』ということであって、借りるにあたって

の挨拶はないらしい。

 そして、子供が遊んでいる間も「遊んだら片付けるんだよ」を念仏のように繰り返す。

 

 私が考えるに、子供(人)にとって『大事なこと』とは、その子供が遊んだ後を

自分で見て、片付いてないなと気が付いて、(気が付いてない時に初めて「後ろを見てご

らん」と声を掛け)本人の意志で行動を起こす。ということだと思う。

 勿論、教育、躾をするということは大切な基本だが、考える時間を与えないというのは

動物を調教するようなもので、自分で考え自分の意志で行う壁となる。

つまり、片付ける、片付く。ということより、本人が気が付くのを『待ってあげる』

などという上から目線でない『待つ』ことこそが、親や先生大人の勤めであり自己訓練。

だと思うのだ。

 人は、自分が決めて自分の意志で行動した時に初めて自信を持つ。

何をまた面倒臭いことを言い出しているのか。と思う方もおられよう。

でも、これはどーしても譲れぬ人間の尊厳、基本領域だ。とワシャ思うとるんじゃ。

 

 以前、保育所の参観に行った時のことだ。

先生の話しを熱心に聞いていた子供。目が輝いていた。

その椅子の曲がりを、巡回していたサポートの人が後ろからグイとテーブルと並行に

直した。

 突然のことに、驚いた子供が後ろを振り返った。

その瞬間輝いていた子供の目が死に、先生の話から心が離れた。

モラハラは、別名“心の殺人者”と言うらしい。

 

 そのサポーターは、椅子に座らない子を座らせることに躍起になっていて、座らないで

いる子供の耳元で「座らないとおやつが食べられないよ」「ほら、ママ帰っちゃうよ」と

小声でささやいていた。

 どうしても座らず頑張っていた子が、サポーターが居なくなるのを待っていたかのよう

に動きだした。

ズルズルと椅子をテーブルから離れた所にひっぱり、そこに半分だけ尻を置いた。

そこに巡回していたサポーターが戻って来た。

そして、ヒョイと、いとも簡単に子供を椅子に深く座らせ、椅子から降りられない位

テーブルの前にくっ付けた。

 次の瞬間、その子はコブシを上げ反っくり返って椅子ごと倒れた。

自分がどうなっても構わない。とでもいうように、そして強かに頭を打った。

「危ないでしょうよ、自分が悪いんだからね」とサポーターは言った。

 

 分かるかな?

大事なことは、ミンナが足並み揃えて座っている。ということじゃなく、一人ひとりが

あー、今、自分は椅子に座る時なんだ。と気が付き、納得して(強制でなく)自分の

意志で行動するということ。

 それが、ミンナに繋がるのであって、先ず最初にミンナを座らせる。ということから

始まってしまうと、このような“マトハズレ”の事態を起こす。

 

 私は商売をしているが、儲けるとは信じる者と書く。

信用第一とよく言うが、信じて信じられる行いをしてその結果、繁盛に繋がる。

 親切にしていると評判が上がるが、評判を上げる為に親切をした時、繁盛させる為に

信用を得ようとするのは、どーしても何かが違う気がする。

 本末転倒とマトハズレは、似ている。

 

 また、私は色んな相談や質問をされることが多い。

それに対する私の意見を書いてみよう。

 

『恋をしたいんですけど、どうしたらいいですか?』

「恋はするもんじゃなくて、落ちるもの。

そして、買わない宝くじは当たりようがない。

出逢いの場に足を運ぶ。行動を起こす。

そして、自分の生き方に即した人と出逢い共感する確率が高いという。

自分が求める生き方をしていれば、同等の人と繋がって行く。

形に囚われて、美醜や世間の評価が大事だったら自分をそうしていけばよかろう。

仕事より恋愛が大事だったら、そういう人が現れるだろう。

人目を気にせず見栄を張らず、人に対する気遣いを大事に、勤勉を楽しんでいたら

それを行っている人と心が寄り添っていくことになる。

自分が何を求めているか、今一度よく考えてみたらいいと、ワシャ思う」

 

『シアワセになりたいんですけど、コツってありますか?』

「シアワセは、なるもんじゃなくて、気が付くもの。そして、感ずるもの。

シアワセは無くした時に気が付く。なんて言うけど、あるうちに気が付いたら更にシア

ワセ。

 誰もミンナそれぞれシアワセの中で生きている。

それに気が付いているかどうか、感じているかどうか、違いはそれだけ」

 

『やりたいことが見つからないんです。どうしたら見つかりますか?』

「見つけようとしなくてもいいんじゃないかな。

目の前にあることをちゃんとやっていると次にやることが現れるから、そしたらそれを

やる。

何でもやっているうちにそれがやりたいことになっていくんであって、目の前にあること

をやらないで他にやりたいことを見つけようとするのは傲慢(ごうまん)で図々しい気

がする。

神様は傲慢と図々しい人は好きでないみたいだね」

 どんなことにも心を向けて気持ちを込めて行っていると、それは、自分の宝になり自分

を育てていく。

 それは、特別なことでなくていい。茶碗を洗うんでも草を引くんでも、人と話すこと

ご飯を作ること、食べること。目の前の事に心を向ける。そこから全てが始まり、それが

全て。

 やりたいことってのは、自分がそこに心を向けられるようになること。

それは自分の鍛錬に掛かっている。

鍛錬を重ね、ふと気が付いた時、それ(やりたいこと)を手に入れていることに気付く。

やりたいこと。っていうのは、そういうもんなんじゃないだろうか。

 

 

    さーて、この答え、マトハズレじゃないかな。