メイド

 沙織、26歳、バツイチ。

3ヶ月前から、ある有名一流ホテルのメイドとして働き出した。

 3年前に離婚し、慰謝料として古いマンションを貰ったが、元夫との連絡はない。

 

 離婚から1年後、少しばかりの貯えも底をつきホテルのメイドの募集を見て面接を受け

働いたことがあったが、今回も、生活の糧に働き出した。

建ってから5年も経っていないそこのホテルは、近代的で、見晴らしがよく創りも値段

も一流だった。

 沙織は、このホテルがオープンしたばかりの時、その頃はまだうまくいっていた夫と

宿泊したことがあった。

 クリスマス間近の沙織の誕生日に、夫はホテルを押さえていた。

その日、一泊20万円のスイートルームには、シャンパンが用意されていた。

 その後も、気持ちが落ち込んだり、一人の時間を楽しみたい時、そこのラウンジを利用

してきた。

 最上階にまで吹き抜けたラウンジの天井からは、月や星が見えこのまま宇宙に飛び出し

ていけそうな、自由な気持ちになった。

都会の明かりは、眼下から地平線まで続いていた。

 

 そんな思い出のあるホテルで働くことは、ちょっと自虐的な気持ちもあった。

裏方の責任者は、細身で背の高い整った顔立ちの35歳位の男だった。

名前は吉岡と名乗ったが、白い顔の吹き出物はそのストレスを表しているかのようだった。

仕事内容を説明され、先輩についての見習いを2,3日行いそれから現場に入った。

一度ホテルのメイドの経験があったこともあって、沙織はすぐに仕事を覚えた。

 仕事は忙しく、疲れはしたが楽しかった。

働かないで何もしないでいると、将来の不安や金の不安に押しつぶされそうになる。

働いていると、どうやったらこの仕事を時間内に要領よくキレイにこなせるかという

ことで頭が一杯で余計なことを考えている余裕はない。

 仕事に出かける時はちょっと面倒だが、仕事が終わった時の開放感はこたえられない。

食事も美味しいし、酒も美味い、仕事あがりに飲むビールは最高だ。

「人間、やっぱ働かなきゃ駄目よねー」と、沙織は友人にメールを送った。

 

メイドの仕事は、無駄話厳禁で、時間内に決められた仕事をこなしていく。

だから、人とつるんだり馴れ合ったり、群れることが苦手で、一人で黙々と仕事をする

ことが性に合っている沙織にとって、やりがいがあり、居心地がよかったのだ。

 ところが最近、雲行きが怪しくなってきた。

沙織の仕事が出来るということで、吉岡に新人教育を頼まれたのだ。

 吉岡は、責任感は強いようだが、メイドの立場や気持ちに立って物事を考えられない。

それが管理的な押し付けとなって、働く者の気持ちを損ね、今まで働いていた人が次々と

辞めてしまった。

 沙織は、働く時は真面目に働くのだが、人に評価されないことが多い。

新人教育をしてもらいたい。と、吉岡に言われた時、沙織は少し嬉しかった。

自分で出来ることなら頑張ってみようと思った。

 そして、新入のメイドに仕事を教えることになった。

 

 その日は、20歳代の女性だった。

「この仕事は、初めてですか?」

「はい」

「じゃあ、点検すべき所と用意する物、掃除する所を教えますね。

それに、ベッドメーキングのやり方を教えます」

掃除は、部屋の床の掃除機をかけ、ゴミを集める。

ゴミを集めながら、ティーバック、チョコレート、スリッパが規定の数あるか点検をする。

ベッドメーキングをして、タオルなどの補充。

雑巾掛けは、一定方向に拭く。

バスルーム、シャワールーム、トイレの掃除と備品の点検をする。

バスルームは見て使用していないようだったら、乾いたタオルで拭く。

それらを、規定時間内に行う。

時間内にしないと自分の持ち場の全室が時間内に終わらない。

 などと、仕事をしながら説明した。

すると、

「あのー、このバスタブは使っていますか?」と聞いてきた。

客が使用したか、ということだ。

「使っているかどうかは、自分の目で確かめてください」と沙織は言った。

「分からないです」

「見て分からなかったら、手で触ってみて、ざらっとしたら使用したと思って下さい」

沙織は、自分の仕事を時間内にこなすので精一杯で、自分で見ようとせず、気が利かず、

手伝おうともせずに次々質問してくるその女性に苛立っていた。

(これは、大変なことになったぞ)と沙織は思った。

 

 次の日に来た女性は、沙織より年上だった。

やはり、メイドの仕事は初めてだということで、一から教えることになった。

しかし、「お客さんが使いやすいために」という説明を始めると、

「あなたのやり方はいいですから、基本を言ってください」と言い出した。

「でも、お客さんの立場に立って考えるというのが、基本姿勢なんじゃないですか?」

「そういう考えはいいですから、マニュアルだけ教えて下さい」

そこで、沙織は何を点検して、何を補充し、何処を掃除するかを説明したが、仕事を

しながらなので、どうしてもそのやり方を話すことになる。

 すると、その度に

「あなたのやり方はいいですから、基本を言ってください!

マニュアルを言ってください!」と食って掛かってくるのだ。

 その女性には、自分が教えてもらっているという意識はなく、沙織の教え方に文句が

あるようだった。

 そして、翌日も、その翌日も彼女は仕事が覚えられなかった。

その為、結局沙織が彼女の間に合わない分の仕事をすることになった。

 しかし、仕事の出来ない自分に対する反省の気持ちはなく、教え助けられているという

感謝の気持ちもなかった。少なくとも沙織には、感じられなかった。

 

「ここは、そのやり方じゃなくてこっちからやった方がいいですよ」と、沙織が言うと

「それは、あなたのやり方でしょ!私には私のやり方があるんです」とその人は言った。

(時間内に自分の仕事も出来なくて手伝ってあげているのに、もー、ヤダ!)と沙織が

思った瞬間だった。

 その人は自分が置いた掃除機に足を引っ掛け、転倒した。

ボキっと嫌な音がした。

「イターイ、イターイ!」とその人が叫んだ。

「お客様がいるから大きな声を出さないで」と、その人をバックヤードに連れていった。

彼女の手首は、変な方向に折れて曲がっていた。

結局、その人は仕事を辞めることになったが、沙織は嫌な気持ちになった。

 

 その日、以前から利用しているラウンジで、いつものバーボンを飲んだ。

ここのツマミは高い。

でも、気分転換をしたかった。

 

次の日、出勤すると吉岡に呼び出された。

「何でしょうか?」

「あなた、うちのラウンジで飲んでたって聞いたんだけど、本当?」吉岡はオカマ口調の

話し方をする。

「はい」

「こういうこと言って何なんだけど、あなたがここのお客さんだったとして、ラウンジで

メイドが飲んでいたらどう思う?」

「どう思うって…」

「あなた、嫌な気持ちにならない?」

「でも、仕事が終わって私服でしたよ」

「いくら私服でも、あなたがメイドだって、分かるお客様には分かるでしょう」

「はあ」

(あー、もう本当に嫌になちゃったなぁ)と、沙織は思った。

 

沙織は小さい頃から、両親に海外旅行に連れていかれた。

一流ホテルにも泊まった。

そして、自分のことは、自分で決めて、自分で行動しなさい。と言われ続けてきた。

沙織が大人になって、親がその種明かしをした。

「私たちは、お前が何処に行って何をしても、自分を否定しない、物怖じしない人間に

なって欲しいと思っているんだよ。

そして、そこに居る人が有名でも、金持ちでも、貧乏でも、例え犯罪者であっても、

その人を馬鹿にすることもしないし、媚びたりビクビクしたりもしない人間になってもら

いたいと思っているんだ。

 そして、自分が金持ちでも貧乏でも、どういう仕事をしても、それを誇りとして働く

人間になってもらいたい。

 自分の幸せは、自分で掴むより他に方法はないと思うんだよ」

 沙織は高校を中退した。

十代で家を出て一人暮らしを始めた。その頃は親が援助してくれたが、今は、自分の力で

暮らしている。実は沙織には、夢がある。

 そう誇れる人間ではないと思うが、背伸びせず、自分の夢に向って毎日を大事にしてい

る…、つもりだ。