ミミちゃん7(歩く遠足)

 家庭訪問で水沢から言われたことを、忘れた訳でも知らん顔を決め込んだのでもなく

結論の出ないまま半月が過ぎていた。

 六月の初めに予定された“歩く遠足のお知らせ”のプリントが届いたその日に

水沢から電話が入った。

「川上さんの久し振りです。早速なんですけれど、歩く遠足のプリント届きました?」

「あっ、どうもお世話になっております。ええ、ああ届きました」

水沢の声を聞いて、聡子は緊張が走るのを感じた。

「忙しいので手短に話しますね。

今回の歩く遠足のことなんですけれども、お母さまに付き添っていただきたいんです」

言葉は柔らかいが切り口上だった。

「なぜですか?」

「お母さまだったら分かっていただけるかと思うんですけど、今回の遠足は乗り物なしで

ずっと歩きなんです。だから途中で歩けなくなっても手助け出来ないんですよ」

「ええ、でもうちのひとみは、保育園の方針もありまして保育園時代からずっと歩いて

生活してきて、こんなこと言ってはなんですが、普通の子供さんよりも歩ける位だと思う

んですよ」

ひとみを育てた“めばえ保育園”の方針の一つであった「自分の手と足と頭を使える人間」

というスローガンは、聡子の子育ての基本となり、出来るだけ自分で考え、自分の手で

行い、自分の足で歩くようにと気をつけ促してきた。

 なかなかそれが出来ず、イライラしてもじっと我慢して見ない振りをして待つことを

心掛けてきたつもりだ。

何事に於いても答えを先に言わず、ひとみが自分で考えて答えを出すのを待ってきた。

優しい兄と世話好きの姉には、何でもやってあげることが、手助けをすることが必ずしも

本当の親切ではないことを話してきた。

兄も姉も割合スムーズに理解してきた。

それより厄介だったのは、まわりの大人だった。

もう歩くのは嫌だと泣くひとみを見て、可愛そうに何もそこまでしなくてもという顔を

し非難の目を向ける。

いや、そう感じてしまう自分が一番厄介だった。

実際「そこまでしなくてもいいんじゃないか」と何度言われたことか。

機嫌良く喜んで歩く時も勿論あったが、歩きたくないと座り込む、或いは泣く。

泣いているひとみを見ると、若しかして自分はひとみに対して残酷なことをしているの

ではないかと聡子は思う。

 しかし、泣けば許される、どうにかなるなどということを覚えさせたくなかった。

時に、無性に腹が立ち悲しさと悔しさが絡み合い、言い様のない気持ちになった。

知人のダウン症の子は、素直で黙々と頑張るが、ひとみは中々言うことをきかない。

そのことに腹が立つこともあるが、そこに彼女なりの意思がある結果なのだと聡子は思う。

しかし、親という自分にとっての都合の良いことが、必ずしも良い子な訳ではないと

理性では分かっていながら気持ちが付いていかないことが現状だった。

 それでも何時の頃からか、ひとみは自分が歩を進めなければどうにもならないのだと

いうことを知ったようだ。

歩く時に人を当てにすることがなくなった。

黙々と歩くときのひとみの姿は健気で聡子の胸は、キュンとなった。

しかし、それは嬉しいキュンだった。

その年の春休みにも家族で近くの山に登った。

そこは、小学四年生の歩くコースで少し短縮はしたが、ひとみは登りきった。

暖かい日で風もなく、山頂は風が冷たかったが、ひとみも家族も皆満足だった。

聡子は、そのことを水沢に伝えたかったが、水沢は聞く耳を持たない。

「兎に角お母さんに付き添って欲しいんです」の一点張りだ。

 聡子はその歩く遠足の日に、注文が入るようになってきた焼き菓子の納品があった。

そのことを水沢に説明し、帰り道だけを付きそうことになった。

 

 遠足の日、朝から雲一つない青空が広がりひとみはニコニコ顔でお弁当を持って出掛け

て行った。

聡子は菓子の納品を済ませた後、菓子作りの仲間に訳を話してひとみ達が昼食を食べて

いる所に車で送ってもらった。

 子供たちの集まっている所から離れた場所で車から降りた。

草むらと小石が続く川原に子供達が、敷物を敷いて弁当を広げていた。

ひとみの世界を少しでも長く見ていたいと聡子は思った。

 ひとみは、仲良しのユキと並んで座り一心不乱に大事そうにおにぎりを頬張っていた。

(本当にあの子は何でも美味しそうにたべるなあ)聡子はそう思うとおかしくなって顔が

綻んだ。

 皆の昼食が済んで、帰りの準備が始まった。

ひとみは早々と食べ終わっていた。

聡子は(ひとみだって遅れずに出来ることがあるじゃないか)と心の中で口を尖らせたが、

(まあ、そんなに自慢出来ることでもないか!?)と、子供たちの所へ歩いて行った。

顔見知りの子供が何人か「あっ、ミミちゃんのお母さんだ!」と駆け寄ってきた。

保育園時代から知っている子は、ミミちゃんのお母さんはお菓子が上手、ということで

聡子は人気があるのだ。

 水沢の所に行き挨拶をした。

水沢は、にこやかに挨拶したが、聡子は居心地の悪さを感じた。

二年生3クラスとその担任の3人、それに保険の先生が加わった教師の中に佐藤の姿

があった。

見慣れた佐藤の笑顔は、聡子をほっとさせた。

水沢がクラスの先頭を歩き、二人ずつ手をつないだ子供たちが、その後に続いた。

ひとみはユキと手をつないでいたが、手をつないでいると歩きづらいのかすぐに手を離し

てしまった。

手を離しているのは、ひとみだけではなかった。

 ひとみは、最初のうちは遅れずに歩いていたが、道端の草花や虫から落ちているゴミに

まで気をとられて遅れがちになった。

遅れると前が空く、空くとあわてて詰めていたのだが、段々と空きが大きくなった。

 すると、ユキが「ミミちゃん、手を引っ張ってあげる?」とひとみの前に手を出した。

「うん」とひとみが嬉しそうにその手をつかもうとすると、ユキはさっと歩を早めた。

「あーん」とひとみが追いかけあっという間に皆の所に追いついた。

どうなることかと見ていた聡子だったが、感心した。

そばに居た保険の先生が、「すごいテクニックね。あたしたちみたいに遅れないでとか、

早く歩きなさいなんて一度も言ってないわよ」と言った。

 それでも、ひとみは遅れがちで、同じ手には乗らなくなった。

すると、ユキは、軽くひとみを叩いて逃げた。

叩き返しにおいでは、暗黙の裡の了解だ。

ひとみは、「もーうー」と言いながら追いかけた。

最初は遠慮がちだった二人も、段々と声が大きくなってきた。

ユキは「ここまでおいで甘酒しんじょ」などと言い、興奮したひとみが走っていく。

そして、ユキが「あーん、ミミちゃんがぶつー」と言った時だった。

それまでも、一度も後ろを振り向かず歩いていた水沢が、真直ぐ前を見たまま

「ひとみさん、いつもどれだけユキちゃんにお世話になっているの!

今日はお母さんにあなたの普段の様子、しっかりと見ていただきましょうね!」と言った。

その瞬間、聡子は反射的に

「先生のご指導も見せていただきましょう」と言っていた。

言った後で、(うわ、すごい言葉の刃が、火花を散らせたぞ)と思った。

保険の先生が、水沢に聞こえない小さな声で

「子供に注意するときは顔を見ないと…ね」と言った。

学校に戻っても水沢は忙しそうに教室に入ってしまい、聡子はろくな挨拶もせずに学校を

後にした。

 ひとみを待たず、一人家へ続く道を歩いていると暖かい風が吹き、空を見上げれば青空

が眩しかった。

目を細めると涙がこぼれた。