ミミちゃん(9)運動会

 夏休みはプールがあり、教育相談所に行き、学童保育に通い、子ども会の催しがありと、

あっという間に終わってしまった。

学校が始まったが、ひとみは登校を嫌がることもなく聡子は一安心していた。

 夏休みが終わっても暑い日が続いていたが、間もなく運動会の練習が始まった。

すると、また水沢から電話が入った。

その内容は、今度の運動会の出し物の一つであるダンスをひとみが覚えられないので

運動会を欠席してくれないかということだった。

あまりにも安直な考えに聡子は憤りを隠せなかった。

「ダンスは、私が教えますから」と言って電話を切ったが、

(水沢は何がそんなに面白くないのだろう?)と思うとその晩はなかなか寝付けなかった。

悪意というものは、誰かに邪魔だと思われているということは人を萎(な)えさせる。

しかし、聡子は、それに負ける気はなかった。

聡子は何故こんなに苦しい目に合わされるのだろうと思う時、何の意味があってこんな

ことが起きるのだろうと思う時に、こう思うのだ。

(ははーん、試されているんだな)と、苦しい時や悲しくてやるせない気持ちで

何もやる気が起きなくなって、困難に潰されそうな状況になっている時、

大切なのは、それでも投げ出さずに元気を出して、出来ることを一つずつやっていくこと。

それを、自分がやるかどうか、やれるかどうかでなく、今やるかどうかを試されているん

だな。と感じるのだ。

身体の調子が悪いから出来ないとか、忙しいから出来ないなどと言い訳をしてやらない

でいることは、結局自分に返ってくる。

 今、聡子に出来ることは、仕事の都合を付けて学校でダンスの練習をする時に行って

ダンスの振り付けを覚えてひとみに教えることだった。

(さあ、明日は仕事の段取りをつけるぞ)と思うと気合が入ってきたが、

もう何も考えないで眠ることにして夏布団を首まで持ち上げた。

 

 聡子は、何時に運動会のダンスの練習をするのかを聞いて学校に通った。

2年生の踊るダンスだが、大人になって堅くなった頭で覚えることは容易ではなかった。

聡子が、子供たちの後ろで身体を動かしていると、振り向いた子供たちがクスクス笑った

でも(こりゃボケ防止には丁度いいわ)と聡子は思った。

何とかダンスの振りを覚えると、今度は家でひとみにそれを教える。

「さあ、ミミちゃん一緒にやろうね」と誘うと何度もやってもうやりたくなくなった

ひとみは、「ひっとりでやればあ」などと言って中々やろうとしない。

宥(なだ)めたり、賺(すか)したり、脅しはしないが、おだてはひとみに必需品だ。

そして、運動会も間近になってやっとダンスを覚えた。

それは、並大抵のことではなかった。

聡子は(これじゃ先生も嫌になるだろうなあ)と改めて思ったものだ。

しかし、ひとみがダンスを覚え(やれやれ、これで一安心)と思ったところで電話が

入った。

「もしもし、お母さんですか?ひとみさん運動会は出席なさるんですか?」

「えっ?はい」

「じゃあ、ダンスの時だけでも見学させてはどうですか?」と水沢は言った。

「えっ?どうしてですか?」

「ダンスは2年生が一番前なんですよ。その上ひとみさんは背が小さいから来賓席の

真ん前で踊ることになるんですよ」

「それの何がいけないんですか?」

「お母さんは、恥ずかしくないんですか?」と水沢は言った。

その時、聡子は何と答えていいか分からなかった。

聡子は、ひとみがどうであっても、それを恥ずかしいと思うことが一番恥ずかしいことだ

と思っている。そして、ひとみを恥じないことが聡子のプライドなのだ。

二三日して、水沢からまた電話が入った。

「お母さん、喜んでください」という水沢の声は明るかった。

「お母さん、ダンスの並び方なんですけどね、1年生が一番前に来ることになったので

ひとみさんは見えなくなりましたから御安心下さい」と言う水沢の声を聞きながら

(この人に私の気持ちは分からないだろう)と聡子は思った。

「有難うございます」と皮肉を込めて言いながら

(しかし、この人には、これが皮肉なことも分からないだろうな)と聡子は思った。

そして(これでもこの人は人を育てる教師なんだ)と思うと悲しくなった。

 

運動会の予行練習の日に何があったか、聡子がそれを知るのは卒業式の日だった。

卒業式が終わり体育館から外に出ると

「卒業おめでとう」と1年の担任になった佐藤先生に声を掛けられた。

「ありがとうございます、先生が居てくれたお陰です」聡子は心からそう佐藤に言った。

2年生の運動会が終わった頃から水沢の嫌がらせのような

「ひとみさんには、ここよりもっとふさわしい所があるんじゃないですか」攻撃が、

なくなっていた。

3年生の担任は、元気な若い男の先生でひとみも元気を取り戻し明るくなった。

 

「でも、あの時は申し訳ないことをしたわね」と佐藤が言った。

「えっ、何がですか?」

「運動会の予行練習の時のことよ」

「えー、何のことでしょう」

「えっ、水沢先生が謝りに行ったでしょう?」

「いえ、そういうことはありませんでしたよ」

「えー、なんでしょー、そういうことは許されないわ」と佐藤は顔色を変えた。

水沢は、ご栄転ということで2年前に移動していた。

「もうすんでしまったことだけど、話さない訳にはいかないわね」と言って佐藤が話し

出した。

 

運動会の予行練習の日、午前の部を終えた子供たちは、昼ごはんで教室に戻った。

午後の部の最初が、ひとみたちが出るダンスだった。

ところが、ひとみの姿が見えなくなった。昼ごはんの席にいなかったのだ。

子供たちや教師たちで捜したが、見つからず大騒ぎになった。

予行練習は、ひとみが見つからないまま行われ、終了した。

練習の間も手の空いた教師が、ひとみを捜したが、見つからず家に連絡しようとして

いた時、掃除当番の6年生が、給食室の配膳棚の30センチ程の隙間に入ってじっと動か

ず隠れているひとみを見つけたのだ。

「その時、ミミちゃんはどんな気持ちだったか…」と佐藤は涙ぐんだ。

そして「申し訳ないことをしてしまった」と頭を下げた。

その日、校長や教頭がひとみの家に連絡して謝ると言ったのだが、水沢は直接自分が

行って謝ってくると言ってきかなかったのだという。

「水沢先生、本当に謝りに行かなかったの?」と佐藤は、また聞いた。

「ええ」

「そう」

その時、人一倍食い意地の張った、学校の一番の楽しみは給食だと言って憚らない

ひとみが、どんな気持ちでそこに隠れて居たのか。

                      誰にも分からない。