南方熊楠

 

 私が、南方熊楠が好きだと連呼しているのを聞いた知人が、熊楠について知りたいと

図書館から「自由のたびびと南方熊楠」(こどもの心を持つづけた学問の巨人)

三田村信行著という本を借りて読んだといってきた。

 また貸しはいけないことだが、ちょっと貸してくれと頼み、その本を読んだ。

子供向けの本だった。読みやすくて、なのに大事なことはきちんと伝わってきた。

あー、自分はこんな風に書きたいんだと強く思う。

自己満足だけで終わりたくない。

しかし、自分世界だけで満足していてはその危険性大だとも思うのであります。

熊楠についての文献は、私には分かりづらいものが多い。

やっぱアタマわりーのかなあ。

そして、熊楠について書く人というのは、事更に思い入れが強いように感じる。

そういっている自分も思いいれが強すぎて書けないできた。

 今回は、それを何でもいいから書いてしまおうと思った。

 

最初に熊楠を「縛られた巨人のようだ」と言ったのは民俗学者の柳田国男だったと思う。

その言葉に、私はずっと異を唱えてきた。

 

超人的な記憶力と理解力を持ち、実行力を持ち実践を重ねていった熊楠。

19歳でアメリカに渡りいくつかの学校に入るが、自分の希望と違い独学を決意する。

読書、植物採集に打ち込む。

サンフランシスコ、ランシング、アナーバー、フロリダ、キューバ島からサーカス団に

入って南米各地をまわり、ニューヨーク、イギリスでは大英博物館に勤め読書と研究の

日々を送る。

言葉は英語だけでなくフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ラテン

など18、9ヶ国語を読み書きできたという。

世界的に有名なネイチャー誌にも、熊楠がまとめた論文「東洋の星座」が載っている。

しかし、熊楠にとって学問は形ではない。

格好をつけることも、威張ることもない。怒りたい時は怒り、暴れたい時は暴れる。

学者でありながら、猫と話し、死んだ父親からの声を聞き、死んだ友人とも会話したと

いう熊楠は、足掛け3年那智の山にこもり粘菌の研究をするうちに、宇宙の真理を感じ

生と死についての深い秘密を感じ取った。

そんな熊楠は、総てのあらゆるモノと垣根を持たない人だったのではないかと私は思う。

赤裸々で開けっ広げ。自由闊達で嘘のない、包み隠しのない、大らかなそれでいて繊細な

人であったのではないかと私は思う。

天衣無縫とは、天から頂いた衣には縫い目がないので繕う必要がないことだ。と聞いた。

彼は、天衣を身に着け生きた人だったのではないかと思うとそれだけで、私は嬉しくて

仕方がなくなるのだ。

 人間嫌いの人間大好き。人間が好きだからこそ嫌になることも多かったのではないか

と思う。

民俗学といったら南方熊楠にならんで柳田国男の名が有名だが、

柳田国男が民俗学をまとめるにあたって、官史としての立場上“性”の部分は無視して

品のよい学問として印象付け、認めさせるためにと世間体を考え(世間体を気にして)

それに蓋をし排除し、省いてまとめた。

それを見た熊楠は、

「猥ヒ(わいひ)のことを全て排除しては、その論少しも奥所を究め得ぬなり」

「猥ヒ多き郷土のことを研究せんとするものが、口先で猥ヒ猥ヒとそしるようでは、

何の研究がなるべき」と反発する。

性を隠蔽(いんぺい)することが、上品で高尚だとする世間にも熊楠は我慢がならなかっ

たのだ。

40歳まで女を知らず、結婚後も妻以外の女を知らない、そして総てのモノに敬意を

持つ熊楠は、性についても本当の敬意を持ち敬意をはらっていたと私は思う。

そして、性に何のワダカマリもないから真直ぐな目で見られたと思うのだ。

 

性について口を噤み(つぐみ)蓋をしてしまった柳田について、

谷川健一が「柳田民俗学の限界」の中で柳田の民俗学について

「人間とは何かという問いへの解決にまで、ついに踏み切れなかった」と書いている。

また、熊楠は「日本にあるほどのことは、ヨーロッパにもある」として

世界の神話民話、風俗や習慣とも照らし合わせ、比較して根源的な見地から調査し研究し

ていくべきだとした。

そして、意見は真っ向から対立することになる。

 

 しかし、柳田とぶつかっても熊楠は柳田に自分の知識と見解を惜しげもなく送っている。

最初から、土俵が違うといったら柳田に失礼だろうか…。

包み隠しをして自分の権威を守ろうとしたときに、人は弱みを持ち自由ではいられなく

なる。

性というものに囚われ、役人の面子にコダワリ、世間体が日本だけでなく世界から

日本が馬鹿にされないようにと、日本の郷土だけで民俗学をまとめようとした柳田。

熊楠を縛られた巨人のようだと言った柳田こそが、縛られた子供だったのではないかと

私は思う。

 

熊楠の中には、自分の権威を守ろうとする保身はなかったと私は感ずる。

地元の共同風呂や居酒屋を好み、場末の酒屋でそこに暮らす人たちの生きている声を

聞いた熊楠。

その人が何処の誰であっても、包み隠しなく、心を開いて向き合った瞬間、

熊楠にとって、同じ土俵で戦い遊ぶ友達となった。

どんな人にも垣根を持たず、上下関係などなく付き合う人だった。

いや、垣根はあった。

格好を気にして、人目を気にして、そのくせ人を馬鹿にする人とは、決して馴れ合うこと

がなかった熊楠は、結果的に情け容赦なくやっつけることとなった。

ある時、転勤してきた医者が毎晩芸子を連れ込んでいると聞いた熊楠は、そんな恥知ら

ずな真似は許しておけんと医者の家に乗り込む。

案の定、芸子と差し向かいの医者の家に上がり込んだ熊楠は、酒やご馳走を鱈腹食べて

飲んで、帰り際に玄関のタタキに、滝のようにゲロを吐いて帰る。

熊楠は、食い溜めと、いつでも思うようにゲロを吐くことが出来たという。

それを何日か続けると医者は根負けして、その町を出て行ってしまったという。

 熊楠は穢(きたな)いことや明らかでないことが大嫌いでだった。

 

しかし、熊楠は恩を忘れることはない。

柳田には合祀問題の会議場乱入事件で刑務所に入れられた時に、一度助けらている。

有名で偉い先生といわれる柳田が熊楠を訪ねてきた時、熊楠は待ち合わせの宿屋に遅れ

まだやって来ないのかと柳田が痺れを切らしたとき、

「南方先生は、照れ屋でさっきからそこで飲んでますよ」と宿の女将が笑いながら言った。

そして、間もなく酔っ払ってしまったからと熊楠は、帰ってしまう。

翌日、柳田が熊楠の家を訪ねるとカイマキ(着物に綿を入れた寝具、寝巻き)を頭から

被って顔を出さず筒袖のところから外を覗き、柳田と会話したという。

しかし、その時も電車の時間が迫っていた柳田とは、碌な話が出来ないでしまう。

熊楠は酒が残っていたというが、これは熊楠の優しさと恩を忘れぬ行いだと私は思う。

それは、どういくことかと言うと熊楠は、相手がいかなる人であっても自分に正直に

思ったことを言わずにはいられない性格だった。

熊楠が本気を出して自分の意見、考え、知識を述べ出したら、臆病で脆弱、閉鎖的で

守りが強く見栄もあっただろう柳田は一たまりもなかったであろう。

熊楠は空を駆け巡る自由な巨人だったと私は思う。

柳田の繊細で薫り高い、雪解け水の中に光る煌めきのような文体を、私は嫌いではないが、

柳田の作品は学問ではなく文学だと思うのだ。

学問というのは、その時の人間の都合での綺麗や汚い、そうであって欲しいなどの気持

ちによって左右されてはならないものだと私は思う。

事実を捻じ曲げたり、事実の取捨選択を自由にしてはならず、また許されないものであ

ると私は思う。

熊楠がやろうとした民族学は、世界的な伝承、神話民話とありのままの郷土の民族

民話を照らし合わせ広く深く掘り下げていくことだった。

民族学が、学問とよばれようともそれは、日々人間が暮らしていることそのままで

あって、何の手直しも帳尻あわせも誤魔化しも必要のないものだと思う。

そして、それは今現在も脈々と息づき続いているものなのだ。

だから、民族学は、今現在生きる人々の心の中にある、想いでもあると思う。

ということは、心理学も民俗学だと私は思っている。

熊楠は、地方の人々と寝食を共にして心を開き見聞きしたことをまとめていった。

霊的なことも性に関することも、伝承、言い伝えもそこにある教えも総てを書き記してい

る。

熊楠の超人的な記憶力によって、それは残されている。

柳田のものは、自らが地方に飛び込んでいってそこで見聞きしたものではない。

生贄(いけにえ)などについても、一度否定し、後に肯定している。

こうありたい、こうあって欲しいという気持ちは誰にでもある。

しかし、そこのところを捻じ伏せなければ本当の学問研究は成り立っていかないのだ。

そういったら学問研究が人間味を欠くように思えるだろうが、その人の都合、趣味主張

を抑えて事実を客観的に冷静な目で観察、調査し掘り下げていくという作業は、その人の

人間哲学、思想、良心に基づくものであると思う。

 つまりその人の人間性が研究の真髄であり、本物の研究者というのは、実践する哲学者

ではないかと思う。

 

何より熊楠のことで私がいいと思うことは、家族や周りの者に愛されたことだ。

人間は一番身近にいる家族や友人に理解され愛されるということが、一番の幸福であり

その人の“人となり”(天性)であると私は思う。

熊楠は決して完璧な人間ではなかった。

松枝と一緒になった頃の熊楠の日記は「松枝、泣く」という言葉が度々出てくる。

研究に夢中になると何もかも忘れて没頭し、どんなに散らかっていようと、松枝がそれに

手を出すと大声で怒鳴ったという。

しかし、その本当に研究を愛してのめり込んでいる熊楠の姿に接した者は、熊楠の虜と

なり損得など考えず協力を惜しまなくなる。

研究に夢中になると着物の前をはだけ、大きな一物をポロリと出してウロウロしている。

 

若いお手伝いの娘が来た日も、素裸で部屋から出てきて、驚いたその娘は逃げ帰った。

しかし、その時にどんな誤解があっても本質は必ず分かることになるのだ。

その後熊楠の家に戻ったその娘は、熊楠の家を大層気に入り喜んで長く勤めたという。

熊楠は、どんなモノに対しても失礼ではなかった。

そのことは、お手伝いの娘や女子供など弱い立場の者が一番良く分かることとなる。

彼が40歳、妻の松枝28歳で結婚するが、

「いずれもその歳まで女と男を知らざりしなり」と日記にある。

何度も書くが、あの時代に、熊楠は女を金で買うなどということは、しない人だった。

 40歳にして初めて、松枝に心惹かれ婚約した熊楠は四斗樽(しとだる)二つに英語や

植物学、歌舞伎の本などを詰め込んで送り松江の家族を驚かせる。

 手紙好きの熊楠から松枝の父にも英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語まじりのえん

えんと続く長大な手紙が届き、律儀な父親宗造は悲鳴をあげながらも辞書と首っ引きで

読み始めたが、三日目には偏頭痛で寝込んでしまったという。

 

熊楠は、婚約した松枝の元を訪ね権現松原を散歩しようと誘うのだが、当時婚約しても

男女が肩を並べて散策するなどどんなに世間の誹り(そしり)を受けることになるか分か

らない時代だった。

 松江が丁寧にその説明をすると、納得した熊楠は非礼を詫びて帰っていった。

熊楠は、何時でも一所懸命で全力投球、何にでも心を尽くし大真面目で敬意を払う。

それが、身近に居る人を惹きつけ、熊楠からの被害を受けても許してしまうことになった

のだろう。

 その二、三日後に熊楠は、丸々太った灰猫を抱いて松枝の家に

「チョボ六に行水つかわせてやって貰えませんか」とやって来る。

松枝の姉妹が、喜んで猫を洗っている姿が目に浮かぶ。

灰色の猫は、綺麗な白と黒のぶちになった。

そして、熊楠は次の日も、次の日も違う汚れた猫を抱えて現れるのだ。

熊楠の猫好きは有名でアメリカに居た時も猫を沢山飼っていて、自分がたべる物がなくて

も猫には餌を与えたという。

面白いことに熊楠は十姉妹、カナリヤ、インコ、鶯、鯰(なまず)、山椒魚、ごとひき

(ヒキガエル)、サソリなどいろいろな動物に囲まれて暮らしたが、

数知れず飼った猫の名前は、総てチョボ六で、犬の名前はポチと決まっていた。

 

熊楠は滅多なことではこたえない。メゲナイ人なのだ。私はここが滅茶苦茶好きだ。

落ち込んだり恨んだりといった言葉が、私の熊楠辞書には見当たらない。

弟の常楠との関係においては感情と勘定の行き違いから激怒することはあっても、

それは恨みとは種類の違うものであると思う。

一人息子である熊弥の気が触れてしまった時の悲しみは悲痛で悲惨ではあるが、

落ち込みとは、また違ったものであるように私は思える。

 それにしても、熊楠の弟、常楠は大変であったろうと思う。

どうしてそんなに常楠が大変だったか、それは彼が裸になれない、ならない人物だった

からだ。

常楠は頑張りやで、縁の下の力持ちをするべき立場に置かれた人だったのだと私は思う。

そのことが、嫌なことを嫌と言えず、黙って我慢することが美徳と考える人になったので

はないかと思う。

熊楠が渡米から世界を旅していた時に仕送りを続けているが、諸事情によって商売が

うまくいかなくなった時に、そこを乗り越えたのは常楠の頑張りだった。

だから、帰国した熊楠の面倒を見続けていくということは、自分が結婚して新しい家族

を養っていく常楠にとっては我慢ならないことだったのだろう。

常楠は、それでも世間体を気にする男で熊楠の面倒を見続け、挙句には面子を気にして

熊楠に寄付すると言ってしまう。

しかし、一向にウダツが上がらないと見える熊楠に愛想を尽かし、熊楠が勝負の土壇場

の時になって寄付を取りやめる。

常楠が熊楠と関わるに於いて最大の失敗は、正直に単刀直入になれなかったことだ。

熊楠にむかって遠まわしな言い方や行動は通じない。

あれだけ頭の良い人なのだから黙っていても分かるだろうなどというのはお門違いだ。

言いたいことがあったらそのまま言えば良かったのだ。

商売がダメになりそうだから送金できない。

自分も家庭を持って熊楠とは違う家庭を守っていかなくてはならないのだから、

もうあなたの面倒はみたくない。

もう自分の家に出入りしてもらいたくない。と。

 しかし、世間体を気にして生きている常楠には、そうは言えなかった。

財産についても自分の都合で運用していた常楠は公明正大では生きられなかった。

そこには、総てを明らかに出来ない事情があったのだろう。

 腹を探られて痛いのは誰のせいでもない、自分のせいなのだ。

 

熊楠には沢山の友達が居た。それは死んだ者でも友達であり、どういった人でも熊楠は

懇親の渾身の心を込めて付き合い、惜しみなく自分をさらけ出し自分の知識を流出した。

熊楠は友人知人に膨大な量の手紙を送っている。

熊楠から手紙を貰った人は、皆一様にそれを大切にしたという。

それは、熊楠は有名だとか、偉い人だったからではないと私は思う。

熊楠の気持ちと一所懸命さが、愛おしく、有り難く、そして何より嬉しかったのだと

思う。

子供のような、それはワガママな自分の都合しか考えない子供ではなく、天真爛漫な

天衣無縫な、誰にでも優しい、自由な心を羽ばたかせることの出来る人だった。

そんな熊楠を、人は愛したのだと思う。

 人一倍身体が、大きく厳つい顔をした熊楠が、何の衒い(てらい)もなく在るがままの

心で生きたということに思いを馳せると、どんなに落ち込んでいる時でも私は元気が出る。

 

南方熊楠、バンザーイ!

 

      あとがき

 あーあ、やっぱり書ききれない。描ききれない。

私が、何を言いたいのかこれを読んでも分からないだろうなあ。

自分でも何を言っているのか分からなくなってきたし。

合祀(ごうし)反対運動のことや、昭和天皇と会った話、粘菌の研究が風の谷のナウシカ

の胞子とダブって宮崎駿は南方が好きなんじゃないか?なんて話は、そのうち書けばいい

や。

自分は、何が書きたかったのか?と、もう一度よーく考えてみたが、

今は、簡単には言葉に出来ない。

もっとちゃんと読みたい人は「自由のたびびと南方熊楠」三田村信行

「縛られた巨人」神坂次郎

             「森のバロック」中沢新一 で読んでくれ。

   あーあ、自分の文才のなさというか頭の悪さに嫌気。