水戸光圀公

 

 私が書いたことが、誰かの琴線に触れることがあるらしい。

何かのツボに入ることもあるらしい。

 それが、怒りのツボだったりすることもある。

書いたものを読んで

「こんなこと書いて何の意味があるんだ?」「何が言いたいのか分からない」

「自分は物知りだと自慢したいのか」という声を聞くことがある。

 

一休宗純の世俗の価値観に流されないその生き方を、私は尊敬している。

そして、ずうずうしくも共通するものを感じている。

 そこを書きたかったが、一休の原点はこれなんだぜ。という、気持もあった。

そこが、知ったかぶりだと思われたのかもしれない。

 

 今回書く水戸黄門も「知ったかぶりして、だから何なんだよ、みんなの好きな黄門さま

じゃダメなのかよ」という人が居るのを覚悟で書く。

 

テレビ映画に出てくる水戸黄門は、助さん格さんを両脇に従え、ここ一番という所で

登場する。

そして、「この御紋が目に入らぬか!」と印籠が出され、

「ここにおられるお方は天下の“副将軍”水戸光圀公にあらせられるぞ」となり、

みんなが、「へへー」と両手をつき、悪人は腰を抜かす。

 

 べーつに、それが悪いとかじゃなくて、本来の黄門さんは権力を振りかざすのが嫌い

な人だったらしいのに、どうしてそうなったのかと思う。

 まぁ、正直に言うと、同じことが、ただの百姓ジジイだと取り合われず、殿様だとなる

と称賛されるってのは、腑に落ちない。

 同じことを提案しても、勉強が出来る人と出来ない人、人気がある人と嫌われている人

じゃ取り上げられかたが違うってのは、世の常かな。

 

 徳川の御三家が、尾張、紀伊、水戸のうち、尾張と紀伊には参勤交代が課せられて

いたが、水戸藩は定府という制度があって江戸で将軍の補佐にあたった。

 それは副将軍じゃなかったのに、副将軍と言っている。

それに、水戸で黄門と呼ばれていたのは7人居るのに、光圀公だけが黄門みたいになって

いる。(別にいいけどさぁ)

 

 はいはい、またウンチク語りが始まるよ。

1628年、頼房の三男として家臣の三木之次の屋敷でコッソリ生まれる。

 何故、コッソリ生まれたか。

頼房はまだ正妻を迎えていなかったが、光圀を妊娠した時、別の側室が怒ったもんで

堕胎するようにと言ったらしい。

 それを三木之次夫婦が、助けたんだなぁ。

その助けがなかったら、水戸光圀公はこの世に存在しなかったんだ。

幼い時から利発で面白い逸話がいろいろ残されているんだけど、何だっけかなぁ。

忘れちゃったな。

でも、覚えている話が、幼い頃から文武両道に長けていて何をやっても上手で周りの

者は身分が高いってだけじゃなくて、本当に感心して褒(ほ)めそやしたらしい。

 そこで、光圀はちょっと?大分、天狗になっていた。

こりゃいかん。と思ったのが、光圀の世話をしていた三木之次の家の婆だった。

 光圀が書を書いていると、一緒に書きなさいとススに汚れたような同じ年頃の子が

連れてこられる。

 当然自分の方が上手いと思っていた光圀は、出来上がった物を「どうだ!」と見せる。

すると、明らかにその子の方が上手い。

絵を描いても、武術をしても敵わない。

悔しがる光圀。

「どうじゃ、世の中は広いべ」と、婆は笑う。

この話、好きなんだよねぇ。

人は天狗になった鼻をへし折られて、大きな人間になっていくんだよなぁ。

 

光圀って人は、18,9歳まで素行が悪くて、吉原に通ったり辻斬りなんかしたらしい。

が、その頃、司波遷の“史記”を読んで何かに目覚め勉学に励むようになる。

だけど、強い果断(思い切ってする)な性格は一生変わらなかった。

綱吉の“生類憐みの令”に断固反対して、犬の皮20匹(50匹ともいわれている)を

綱吉に献上した。

 同時に殉死の禁止令を出す。

 

 63歳で隠居し西山荘に住むようになる。

その西山荘が、私の生まれ育ったすぐ近くで、何度そこに行ったことか。

 一度火事で焼失し、小さく建て直されたというが、光圀公の気持は引き継がれている。

それは、何かというと。

 先ず、敷居がない。(今は上がれないけど、昔は家の中に入ることが出来たんだぜ)

「ワシャ、敷居のない暮らしがしたい」と言ったんだという。

庭に池があって、心という形になっている。

でも、正面から見ても見えない。

その後ろにある築山に登って、やっと分かる。

「人の心は裏から見よ」と言ったという。

 

 水戸黄門は漫遊記となっているけど、本当は日光、鎌倉、金沢、房総がやっとで、関東

より遠くには行かなかったんだって。

 まぁ、興味のない人には大きなお世話だろうけど、光圀公は西山荘で大日本史の

編纂をして、助さん格さんってのは学者でその手伝いをした人で侍じゃねぇ。

 光圀公って人は、食道楽で中国から来た学者にラーメンや餃子を教わったり、牛乳

なんかを初めて飲んだり肉なんかも食べたんだと。

 でも、贅沢(ぜいたく)をせず、農民とよく接したらしい。

 

 母の本宅の家にも遊びに来て、刀なんか呉れたらしい。

旅の帰り道で疲れて、そこにあった米俵に腰掛けて農家のお婆さんにヒドク怒られたって

話は有名だけど、西山荘の近くの田んぼで立ちションベンして、そこの人に怒鳴られ

たって話を聞いた。

 光圀公御手植えの田ってのがあるけど、普通、殿様つったら

「苦しゅうない、近こう寄れ」って感じなんだけど、光圀さんは、

「なーにやってんだぁ」って田んぼの中に自分からジャブジャブ入って行って人の話を

聞く人だったらしい。 

 

 1700年、73歳(満71歳)没。

おおそれながら、私の尊敬する白髭の祖父と享年が一緒。

 助さんは、正宗寺(こーれがまたウチのお寺なんだ)に、眠っている。

 

 それから206年掛かって、1906年(明治39年)大日本史の編纂が完成する。

それを始めた光圀公も凄いが、それをやり続けた後任の人たちってのも、凄いと思う。

 

光圀公が亡くなって読まれた歌。

「天が下 二つの宝つき果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」