水汲み

 

 台所の整理をしていた。

最近大分色んな物を捨てたが、まだ使えるんじゃないかという未練が断ち切れない物、

それは、ガラスの器やフタ付きの器たちだ。

私は何故かフタ付きの器が好きで集めるが、身とフタが片方になることが多い。

 フタだけが、これまた身だけになった器に収めれているなんてことは日常茶飯事。

でも、それがたまに出会って“身も蓋もない”じゃなくて

「きょうはぁ、ミとフタが出会った〜」(ウルルン滞在記風に)って感じで矢鱈気持ちいい

もんだから片割れたちを、場所をふさぎながら取っておくということをする。

 靴下もそうで、何処にいってしまったんだか片方になった靴下たちが、何時かひょっ

こり仲間が現れるんじゃないかと、やっぱり結構な量で待機している。

そういう物たちで我が家はゴチャゴチャになっているんだけど、家の中が片付いている

人というのは、取捨選択が上手いんだと思う。

この間テレビで“家の中を整理する”というのをやっていて、その一番目は、先ずは

物を処分するんだけれど、そこでの決め手線引きは“必要か必要でないか”じゃなくて

“トキメクかトキメカナイか”なんだという。

それを聞いて以来私は、「あなたはトキメキますか?トキメキませんか?」と品物に聞き

ながら片付けをしていたんだけど、

 あれ?、品物に聞くんじゃなくて自分に聞くのが正解じゃねえの?って気が付いたら

笑っちゃったね。品物の気持ち聞いてどーすんのよ。

 取捨選択に自主性がないから品物に聞いちゃったりするんだろうね私。

 

 あと、片付かない原因に、

どう見ても処分!という物を、工夫したら使えるんじゃないか?と思ってしまうんだな。

 洋服を箪笥に入れない私は畳んでその辺に積み上げて置く。そこで出来る色焼け。

色焼けしていても気に入っている物は着るが、色柄の面白い物はパッチワークにしようか

なんて考える。

 どうしようもない物は油拭きにしよう。なんて考える。そして、溜まる。

タオル類は特に好きで、身の回りにあるだけで安心するのであちこちにある。

行きたくないのに行かなければならない病院に行く時などは、タオルは必需品で、使い

古したタオルの感触がこたえられない。ということで、ヨレヨレになったタオルも捨てら

れない。

その他にどうしても捨てられない物が、自分が書いたメモや書きつけ、これも至る所に

溜まりに溜まっている。(自分の痕跡がどれだけ好きなんだか)

 この未練タラタラとコダワリというのは何に端を発しているんだろう?

なんて、台所の洗い物が終わってステンレスを磨きながら考えていたら、

「あー、そうか!」と、自分の事じゃない所の答えが出てきた。

 

 夫はポットでも風呂でも水を大量に汲む。

鍋やポットに水を入れる時、普通大体この位でしょというラインがあると私は思う

 湯沸かしポットなどは、ちゃんと線が書いてあって「この線より上まで水を入れないで

下さい。溢れ出す恐れがあります」なんて注意書きがあったりする。

我が家の電気ポットは、台湾製でステンレスで口の細い薬缶のような形をしている。

そのポットの内側にも線が書かれてあるにも関わらず、夫は線の上などというレベルで

なく口切りイッパイまで並々と水を入れる。

 それは、危険だからと何度注意しても怒ってもダメで諦めの境地になっている。

でも、先日お茶を淹れようとしたらどう水平に持っても熱湯が前から後ろからこぼれて

手に火傷をしてしまった。(大したことなかったよ)

 ポットの置いてある場所が暗くて中がよく見えなかったと夫は言い訳していたが、毎度

のことなのでもう怒る気にもなれなかった。

 考えてみると夫は何かを計る時に計量カップを使いたがらないとか、あるべき場所に

物を片付けない(これは私もなので人のことをいえないんだけど)

どうして彼は水にこだわるんだろう?決まりごとに縛られたくないんだろう?

と心の何処かでずっと思ってきた。

 それが、「あーそうか!」と、見えた。

 

 夫が生まれ育った家は宿場町でそこそこ栄えていたが、水道がなかった。

洗濯は近くの川でして、飲み水は湧水を汲みに行ったという。

「えっ、井戸はなかったの?」と聞くと

「井戸は水質が悪かったから風呂とかに使って、飲み水は汲みに行ったんだ」

いい湧水が近所にあって、近所といってもそれでも600メートルは離れていたらしい。

そこに水を汲みに行ったのだという。

「それが全部オレの仕事で、イヤで仕方がなかった」と、そう言えば何度も聞いてきた話

だった。

「雨の日も風の日も、嫌でも嫌でなくても毎日水汲みに行かされたんだ」

 兄姉が居るのに何故か末っ子である彼が、井戸から水を汲んで風呂に入れ、飲み水を

汲みに行っては甕(かめ)に入れた。それも毎日。

 そーいえば、「甕や風呂に水がイッパイに入っていると安心でいい気持ちになるんだ」と

彼が言うのを何度も聞いてきた。

 

 あー、そーかぁ、意地っ張りで負けず嫌いの彼が、でも面倒臭がりで誰かに命令される

ことを何より嫌う彼が、子供の時どんな気持ちで毎日、毎日、水を汲んだのか。

 

 私の家は貸家の小さい文化住宅だったが、水道があった。

水道の蛇口をひねれば水が出るのが当たり前だった。

 彼の水へのこだわりは、私には分からないことだった。

分からないことだったんだ。ということが、その時初めて分かった。

 

 

身体の一部にこだわる人が居る。

その人が、最近そこの手術した。

そんなの大したことないと言う人が多かったが、自分が不安だったからだという。

その人は色んなことに不安を感じるらしい、何か一つ物を買うにしても慎重というか迷い

買った後でも後悔したりするらしい。

 失敗をしたくないんだとその人は言う。

その人が、親の面倒をみることになった。

「手術した所は思うようでないし、年寄りのことも先のことを考えるとウツになりそう

だっていうのに、みんなお気楽ゴンタ君で、何か起きたらその時考えればいいなんて

言って、イキアタリバッタリで慎重さに欠けるのよ周りの人たちは何も考えてないのよ」

とその人は言った。

「そうかな、みんな何も考えてないかな?」と言うと、

「ゼッタイ何も考えてない」とその人はキッパリと言い

「みんなも私みたいに考えて落ち込めばいい」と言った。

 

予期不安というのがある。

こうなったらどうしよう?が、こうなるんじゃないかな? が、きっとこうなる。と

悪い予測をしていって現実に起きるんじゃないかとどんどん不安を募らせていく。

 そういう人は、慎重で真面目だったりするが、思考発想の柔軟性に欠け、同じ思考でも

“どうしたらそれが良い方向へ向いて行くか”でなく、“こうなったらどうしよう”という

所で思考が留まってしまっている。

 そして、自分の考えで人を決めつける人というのは、

『誰もがそれぞれ二つと同じでない生まれ、育ち、そこで味わった過去を持ち、違う都合

と価値観を持ち、違う個性感覚で生きている。』

 そして、それは頭で分かったつもりでいても本当のことは『他の人には分からない』

という至って簡単なことに気が付いていないんだと思う。

 思うけれども、その人もそうなるだけの過去の何かがあったのだろう。

 

 と分かった風に言っている私も、ついウッカリそれを忘れていることが多い。

取り敢えずは、何時もの「私は分からないということを分かっているように」を心掛け

よう。

 

 その人を本当に理解することはないのかもしれないけど、何かがすっぽりとはまって、

納得し腑に落ちることがある。

それは、逸(はぐ)れていたもう一方の靴下が見つかった時の気持ち良さに似ている。

だもんだから、片方になった靴下が処分出来ないのかなぁ。