モテル秘訣

 私はモテルと自分で思う。

何故モテルかというと、それはモテル努力をしながら、モテヨウとして媚びていない

からじゃないかと思う。

 

 今日はその、こうするとモテルようになると思っている私なりの秘訣を伝授しようと

思う。

モテルっていうと、異性に対してだと思う人が多いかと思うが、これは異性だけじゃない。

家族や友達、行きずりの人から犬猫メダカ、果ては植物にまで好かれる人間になる

ってことですよ。

 

その第一は、先ずは、媚びないことだ。媚びてるやつは気持ちが悪い。

そして、自然体で愛される自分になる努力をする。

「愛される人におなりなさい」ってキリちゃんは言った。

でも、愛されるのは自分のためだけじゃないんだよなぁ。

愛する人こそが、幸せなんだ。あなたもそうじゃない?

ワダカマリや引っかかる気持ちがなく、ただ好きだなぁーと思う人や物事があると、

それだけで生きてるのが楽しくなっちゃわないか?

 そういう人や物事があるということと、自分がそういう人間になることで、最強の

人生になるんじゃないかと思う。

その為には、自分がそうなる努力をすると共に、人にもそうなってもらいたいと思うん

だよなぁ。

今回は、その為の話なんです。

 

先ずは、自分を自分で持つ。

何でもいいから自分の趣味、好み、考えを持つんですよ。

 それはモテルためにではなく、ホントウに自分が楽しくて面白くて興味を持てることを

見つけて持つことだ。

 まあ、そうなるとモテルことなんてどうでもよくなるんだ。

でも、そのどうでもよくなることが大事なんだね。

もてることなんてどうでもよくなって、自分なりの楽しみを見つけて、楽しんだり

苦しんだりしながら本気で生きていると、人はその人に興味を持ち始めるんだから、

不思議なもんだよね。

 

 次、自分が面白くなったら自然と人に見せたり、教えたくならないですか?

それって、媚や自己顕示欲とはちょっと違うもんなんだよなぁ。

私の場合は、しゃべりたい、人を笑わせたい、ビックリさせたい、苦しんでる人の

解決の糸口を見つける手伝いがしたーい!この最後のあたりになると、ちょっとスケベ心

が出てきてるかな?

 でも、それは、人に発信しなければ、実現しない。

昔の私は、人に理解されなくたっていいや、好かれなくていいと思ってた。

 でも、それはホントウはウソだった。

理解されない悲しみや怒り、淋しい気持ちなんかで、どうせダメだと諦めて強がって

いただけだった。

最近の私は変わったぜ。

やるだけやって、その先は相手の自由、どーぞ煮るなと焼くなとご随意に、って気持ち

になってきたのよ。

私は私のやりたい道を進む、何かを発信するまでは私の領域だが、その先の相手が

どう思いどう感じるかは、その人の領域だ。

やるだけやったら、潔く手放す。黙って見ているもよし、見ないもよし。

総てのことは、恋愛でも子育てでも仕事でも芸術でも何でも、ソレに尽きるんじゃない

かと思うんだ。

 

そして、何よりカッコよくなければいけない。

それは、若いだのキレイだの何かが出来るなんてことじゃなくて、想い、考え方、覚悟

そして、その人が、どれだけそれを行っているかってことだと思う。

 

ある人の母親は、「やらなくていいよ」といくら言っても、大人になった子どもの為に

料理を作り、花を買い、野菜やオカズを届けてくるという。

持病を持っていて70歳を越えたその母親が、身体が辛くない筈はない。

額に脂汗をかいて、太った身体でフーフーいいながら3日と空けずにやって来る。

 その人は娘に受け入れられたいのか、生活の総てを話し報告しようとする。

娘の総てをしりたくて、何でも聞いてくるらしい。

「忙しいのに悪いね」と娘を気にしながら、毎日用事を作っては電話を掛けてくる。

娘のところに来ると「じゃ、帰るから」と言いながら、中々帰れない。

その母親は、自分が人にどう見られているかに関心がないのか、気が回らないのか、

自分が興味を持ったら人目など関係なくジロジロ見て、思ったことをそのまま口にする。

好きな人には相好を崩し、嫌いな人には邪険にする。

 その娘である知人は、それに辟易しながらもそれらを許し、尊敬と感謝、そして諦め

の気持ちでいるみたいだ。

 彼女は幼い頃から、手作りの料理に手作りの服で、大事に育てられたという、

学校の宿題は自分でやりたくても母親がやってしまったんだという。

夏休みの宿題の絵や工作は、どうみても子供が作ったもんじゃないだろうってのを

持って登校したと笑いながら言う。

 彼女に来た手紙はこっそり開けて見る。机の中の日記も見られた。

申し訳ないが、その母親はカッコ悪いと思う。

 でも最近、ここまでやってやり通しているその母親を見ていると、それはそれで

カッコいいんじゃないかとも思うようになった。

 

しかし、人は自分のタメに生きるべきだと思うんだ。

子どもでも恋人でも、基本的に自分があって、その上で相手がある。

その母親は自分の為にやっているんだろうが、娘の本当の気持ちは考えていない。

私が言っているのは、自分だけを中心で生きていいと言っているんじゃないんだよ。

自分のタメっていうのは、自分がどれだけ納得しているかっていうことと同時に相手も

納得しているかどうかを観察する冷静さを持っているかってことでもある。

 いまだにその過保護下に在る彼女は、

「もうお願いだから、母には自分の好きな道を歩いて欲しいの」

「私のことは構わないで、自分のお守りは自分でして欲しいのよ」と言う。

 そう、その母親は自己満足の世界だけに生きているのだと私は思う。

 

話は変わるが、躁鬱(そううつ)の知人がいる。

鬱(うつ)状態に入ると、顔つきが変わりその肉質までがのっぺりと蝋人形のようになり、

声もでなくなり、動きはスローモーションになり、家から出なくなる。

 それが、躁状態に入ってくると、やけにハシャギ、喋り、活動的になって何処にでも

出没し始める。

お洒落をし、飾り物を沢山ぶら下げたバックを手に、知らない人にも話し掛けている姿を

見かける。

 まあ、誰にでもそういう要素はある。年中躁っぽい人も居るし、鬱っぽい人もいる。

しかし、彼女の場合は、それがあまりにも顕著なのだ。

そして、躁状態の後には、自己嫌悪がやってきて鬱がやってくる。

そして引きこもり状態になる。

 その姿は危なっかしい気がして、見ていて痛々しい。

きっとそういうことを、鬱状態の時に言ったら、彼女の落ち込みに拍車を掛けることに

なると思い、危険な気がして今まで言えないできた。

 それが、去年つい言ってしまった。

その日私は、待ち合わせがあって急いでいた。

駅の階段で、彼女にすれ違った。

彼女は、キラキラしていて、躁状態に入っていることが一目で分かった。

「あー、麻子さーん」彼女は、ピカピカの笑顔で私に手を握った。

「あー、ユメちゃん、久し振りね」

「アタシ、アタシね。もう大丈夫になったの。もう、今までのアタシじゃなくなったの。

この間は、ボランティアで老人ホームの慰問のグループに入れてもらって、あんたは

スターだって言われてね」

「そう、良かったね。でも、今日は急いでいるから、後でその話は聞くね」

「いやん、いやん、今聞いて!それでね、それでね、最近」

「あのね、私思うんだけど、自分にあったことを全部人に伝えなくてもいいんだと思うよ」

「だって、シャベリたいんだもーん」と彼女は子どもみたいに口を尖らせた。

階段の途中で、人の通行の妨げになっていて私たちの横を通る人が、振り返って見た。

「でも、その相手は聞きたいと思っているかな?その時に、聞ける状態にいるかな?」と

私は言った。

「エッ」と彼女の表情がフリーズした。

 

そう、全部を知ってもらおうとか、理解してもらおうと思う気持ちが強すぎる生きる

ことが、苦しくなるんじゃないかと私は思う。

 それは、周りを見えなくし、領域を侵すことになる。

話すところまでが、自分の領域で、そこから先に理解するかは相手の領域。

そして、それを聞くかどうか、相手の領域。

 領域を守ることが、地に足をつける基本になる。

 その日の私は、待ち合わせに遅れることを覚悟した。

そこに目の前に居る彼女の方が、大事だと思ったからだ。

 その話の内容は長くなるので次回に書くことにして、その時の私は自分の考えを伝え、

私が彼女のことをどれだけ思っているかを、心を込めて伝えた。

 思い上がりかもしれないが、あれから彼女の躁鬱の振れが緩やかになった気がする。

 

人は、カッコよくないと、生きているのが嫌になる。面白くない。

 私の思うカッコいいとは、毅然としながら、暖かいことだ。失礼でないことだ。

それは、若いだのキレイだの金持ちだの、いい車に乗ってるだのという表面的なこと

じゃなく、といってもそういう表面的なことを否定しているんじゃなく、それはあっても

なくてもいいことなのだ。

 そして、あってもなくても、ダメなこともある。

 

 先日、精神障害者のグループと交流のある人が、

「障害ってどういうことですか?

私は、あの人たちは、普通といわれている人と変わらないと思うんですけど、それに

普通といわれている人にもヘンな人はイッパイ居ると思うんですけど」と言ってきた。

その人は、実際に精神障害者といわれる人たちと交流することで、その人たちを思う

ことで社会にたいする憤りを感じていたんじゃないかと思う。

何故そう思ったかというと、以前の私がそうだった。

しかし、段々に考えが変わってきている。

 彼らを普通じゃないと思っているのは、自分じゃないだろうか?

その前に普通という言葉を嫌いながら、普通のワクに入れることが親切のつもりでいた

んじゃないだろうか?

と、思い始めたのだ。

その人の問いから出てきたのは、

「障害という言葉を別の言葉に置き換えたら、“生き辛い”ということじゃないかな?

自分に満足していないということじゃないだろうか。

周りがどういっても、その本人が満足して、辛くなくて、障害を感じていないんだっ

たら、手がなくても、耳がきこえなくても、私は障害者ではないと思う。

以前に両手がなくて、縫い物でも料理も何でも足で出来る女の子が、

『あたし自分のこと、ゼンゼン障害者だと思っていないの、だって、障害を感じて

いないんだもの』って言ってたけど、ホントにそうだと思う。

そこのグループの人たちが、生きることが辛くて苦しい、生き辛いと思っているなら、

それは障害なんじゃないだろうか?

障害という言葉は、社会が貼ったレッテルじゃなくて、本人からの訴えなのかもしれな

いと、私は思うようになっている」という答えだった。

 

 あぁー、ドンドン話が逸れてくと思ってんでしょ。

ザンネンでしたー。

 最初に言ったでしょ、自分が、満足しているかどうかが基本だって。

でも自己満足だけで終わってはいけないんだ。

そして、周りを見ることが出来るってこと。と同時に、周りの目を気にしないこと。

 

大事なことは、カッコいいこと。中身のカッコいいやつは、絶対にモテル。

私は、モテヨウとしないでモテル人間になる努力をしているんだけどー、

実は、ホントウにモテテイルかどうかは、分からないのでした。

でも、一回やってみ、どれだけ効果があるか。